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「結婚しよう」


そう言った後じっちゃんはいつもどおり「いただきます」と小さく手を合わせて、何事もなかったかのように生姜焼きに手をつけた。

「食べないの?冷めないうちに食べたほうがいいんじゃない?」

唖然としているあたしにそう言って、瞬く間に生姜焼きはじっちゃんの前から姿を消していく。

早食いなのに綺麗に食べるんだよなー、この人。なんて全然関係ないことを目の前の人を見ながらぼんやりと思いつつ、じっちゃんの食べる姿を眺める。じっちゃんがお味噌汁に手を伸ばしながらあたしを呼ぶ。

「ミオ?」

「・・たべる」

突然目の前に現実が戻ってきたような気がして、じっちゃんに負けないように秋刀魚に手を伸ばした。表面上はなんとかポーカーフェイスを保っていたけど、心の中は大好物の秋刀魚の味なんてほとんど分からないくらい動揺していて、その後どうやって秋刀魚を食べ切ったのかなんて覚えていない。油のたっぷりのった新物の魚なのに、きっと舌古を絶品だったはず味を覚えてないなんて勿体ない。

定食を食べ切った頃、あたしの頭はヒューズが飛んでしまったかのように考えることを止めた。

もう、訳が分からない。冗談なのか本気なのか。でもじっちゃんは冗談だと言っていつもあたしを揄ときのように意地悪く笑ってはくれなかった。

「じゃ、行きますか」

目の前のご飯が全部綺麗になくなってお茶を飲んで一息ついたとき、じっちゃんがそう言ってあたしたちはほぼ同時に席を立った。


いつもと変わらない夜だった。

じっちゃんの謎の‘結婚しよう’宣言以外は何も変わらない、いつもと同じ夜だった。



「どこにする?」

店を出て左に進むと幹線道路に出る。

夕食をしっかり食べたあとどこか静かなバーで飲む。居酒屋でまったり飲むときもあるけど、大抵はこのパターンがあたしたちの定番だった。バーにも“はるか”みたいにお気に入りが何件かあって、行き先はその時の気分で決まる。ときどきじっちゃんが職場の人に聞いてきた雰囲気の良いお店とか、あたしが友達から聞いてきたオススメのお店とかに行くこともあるけれど、大抵は二人が気に入っているお店に向かう。

「ASHITAがいい」

あたしはお気に入りの中でここから一番遠い店の名前を言った。

バーによってビールの美味しいお店、カクテルの美味しいお店、日本酒や焼酎がたくさん置かれている店なんかがあって、その時の気分で選ぶ。だけど正直、今日はどこでも良かった。ただ、さっきのことで少し頭を冷やしたいと思っただけ。二人でまったりした空間に入ってしまう前に。人通りがあって、空気が流れていて、閉鎖していない空間、つまり逃げ場のある場所で少しだけゆっくり考える時間が欲しいと思った。そんなのほんの少しの現実逃避にもならないって分かってはいたけど。


ところどころに水たまりの残る道をゆっくりと二人で歩く。あたしの左側の手を少し伸ばせば触れる距離にじっちゃんがいる。じっちゃんはいつも、あたしのほんの少しだけ前を歩く。会話はほとんどなかった。普段からあたしが主に話をしてじっちゃんは聞き役のことが多いから、あたしがしゃべらなければ必然として沈黙が続く。

だけどじっちゃんとなら沈黙だって気にならない。お互いがお互いに考え事をしていても傍にいられる。全然違う好きなことをしていたっていい。沈黙なんて気にならない。あたしたちはただ、空間を共有する。じっちゃんとはずっとそんな関係だ。だからじっちゃんも何もしゃべらないし、あたしたちは沈黙のままただ足を進める。ゆっくりと。

車道にできた水たまりを車が勢いよく通過していった。車道側を歩いていたじっちゃんは、スッとあたしを庇うように体を斜めに向けた。

下ばかり見つめていたあたしの前に少しだけ影が差して、じっちゃんの体が視界に入った。反射的に見上げると、じっちゃんの顔が目の前にあって、その瞬間にシャーッと車が通過していく音が聞こえた。

「大丈夫?」

いつも通りにあたしに声をかけてくれたじっちゃんと目を合わせるのが恥ずかしく思えてすぐに目を逸らしてしまったから、じっちゃんがどんな顔をしていたかは分からなかった。

こんなのあたしらしくないな、そう思った。

いつも通りに。と自分に言い聞かせてみたけど、“いつも通り”が一体どんな風だったのか思い出せなくて、想像さえもできなくて、挙動不審に目をきょろきょろさせながら、少し先にある信号機の赤色を見つめているふりをした。

目を逸らしてしまったあたしにじっちゃんは何も言わず、何事もなかったかのように二人はまた歩き出した。二人の間には沈黙が流れて、一旦停止されていた時間が再び再生されたかのようにさっきと同じ時間が流れ始める。まるでちょっとした放送事故だったかのように。

見つめた信号機の向こう側に、とても細い、明日には消えて無くなってしまいそうな月が顔を出し始めていた。


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