始まりの週末
俺の人生を言い表すと恐らく平凡だがそれなりと評されるだろう。
それなりの大学を卒業し、それなりに世間体的にも認められる会社に就職した。
それなりに、周囲からも認められる程度には仕事をこなしている自負もある。
とても……とても悲しい事に彼女は居ないが、友人はそれなりにいる。
会社の同僚も悪くない人に恵まれた。ただ仕事は別に好きでは無い。
単純に世間体が有るから……そして、お金が無ければ現代日本において
生活が成り立たないのだから、仕方なく労働に従事しているだけだ。
一緒に入社した同期達は、熱く仕事論を語るようになって来たりしている。
任される仕事量も、難易度も、責任も上がって来た結果だろう。
俺は空気を読みながら、そんな同期達に話を合わせる。
俺の生来の特技は空気を読む事。人に気持ち良く話をさせるのは得意だ。
もちろんそんな事、本当は全然興味無い。
俺、本当は何がしたかったんだろう。
自問してみても思いつかない。その程度の人間。
多分、俺は流されるままに仕事をして定年を迎えて死んでいくんだろう。
人生何が起こるか判らないと言葉では言いつつも、二十六歳のあの日までは、
俺は自分の人生が、平穏で平凡である事を信じて疑う事すら無かった。
◆◆
「いやー、根田さんのお陰ですよー 今回の案件が上手くいったのは。私は言われた通りにやっていただけですもん」
『いえいえ、桐嶋さんのプレゼンが完全に効きましたよ』
「そんな事無いっすよ!まぁ、上手く纏まって良かったっすよね。これでようやくゆっくり眠れますわ」
『また今度飲みに行きましょう。今度はウチに奢らせて下さいよ』
「良いですねー。楽しみにしてます。おっと、長時間喋り過ぎましたね。それじゃあ、そろそろ」
『ええ、失礼します』
「失礼しまーす」
ふぅ……我ながら薄っぺらい会話だ。
根田氏も悪い人じゃないんだが電話が長い。
終わった案件の感想でダラダラ喋ってる余裕は正直言って無い。
既に根田氏と喋っていた十五分の間に、携帯には二件の着信があった。
クレームの電話じゃないと良いなぁ……
着信履歴を確認する。
うん、まぁ……この人達ならもう一回くらい電話が鳴るまで放置してても良いな。
直近で対応しなければ拙い案件は抱えてなかった筈だ。
「桐嶋さん、お電話でーす。ファリシーズの青山さんからです」
「それマンションの押し売りだから外出中って言っといてー」
全く人を見て押し売りしてくれ。
と言うか今のご時勢で押し売りからポンとマンション契約する奴なんているのかねぇ。
若者の車離れとか言われてるご時勢だ。俺も例に漏れず、車にもそんなに興味無いし、
マンションなんて分不相応な物買おうなんて考えた事も無い。
毎月マラソンしているアニメのBD数本だけでいっぱいいっぱいだ。
今月は、大好きなロボットアニメのBDBOX(定価六万円)もそこに追加されている。
いかん、いらん事考えてないで仕事しなきゃ……
現在十四時。終業まであと三時間半。そうは言っても何時に帰れるかは後何本電話鳴るか次第だ。
今日こそは定時に仕事を切り上げて、出来るビジネスマンっぽく帰ろう。
何と言っても、今日は一週間で最もテンションの上がる金曜日なのだから!
◆◆
時計の針は、結局二十時を回ってしまっている。
出来るビジネスマンへの道程はとても遠いようだ。
「キリちゃん。腹減ったな」
「そっすねー」
この時間になっても仕事が、綺麗に片付く気配はまるで無かった。
何で十八時くらいになって、至急の見積もりとか来るわけ?
神様とやらは、どうにも俺の事が嫌いなようだ。
「そろそろ行こうよー」
さっきからしつこく話しかけているのは五つ上の先輩の藤野さんだ。
彼は既に今日の仕事は終わった……のだろうか?
【至急】と刻印された客先からのFAXが何枚も見えるが……
「金曜日のこの時間に送ってる来るアホが悪い」
ごもっともな意見だ。
俺もこの先輩くらい割り切れれば良いんだが。
どうも俺は営業に向いてないくらいお人好しらしい。
言われた事は「Yes」とつい言ってしまうタイプだ。
お願いされるとどうにも断れない優柔不断型とても言うのか。
だからマンションの押し売りの電話にも出たくない。
全然知らない人とは言え断るの辛いんだよ。判ってくれよ。
この先輩ならば、あの手の電話取っても「いらねぇよ!」の一言で片付けるんだろう。
「何食いに行く?疲れたし焼肉でも行くかー」
非常に魅力的な提案だ。
藤野さんの提案魅力値+50
俺の残りの仕事魅力値-50
今日の昼飯も時間が無くて、コンビニのおにぎりで済ませてしまっている。
それにこの先輩は、気分屋で相手をしていて面倒臭い所も多いが飯は奢ってくれる。
正直言って考えるまでも無いだろう。このまま残業を続けても今日中に仕事が片付く事は無い。
ならば今日は、気分を切り替えて、土日のどちらかで会社に出て来て仕事をする方が効率的だ。
「んじゃ、あがりますか」
「おっ、良いね!そこの【至急】って根ちゃんが送ってきてる見積もりはスルーか?」
笑いながら藤野さんは言う
「金曜日のこの時間に送って来るアホが悪い……で良いんですよね?」
「キリちゃんも分って来たじゃない」
すまん根田氏。今月は例のBDBOXのお蔭で給料日まで本気で苦しいのだ。
ただ飯の機会は、なるべく逃したくない。土日のどちらかで頑張ってやるから。
最悪でも、月曜日の朝一にはきっとFAXするから許してくれ。
午後九時を少し回った頃、俺と藤野さんは、焼肉屋の席に着いていた。
スタートが少し遅かったお陰か、金曜日の夜だと言うのにすんなり店には入れた。
普通のチェーン店だが、久しぶりの焼肉、しかも奢りに文句などあろうはずもない。
取り敢えずビールとすぐ出そうなツマミを頼み、適当に肉をオーダーする。
「上カルビ良いっすよね?あと上タンと……」
「程ほどにしてくれよ」
「大丈夫です。予算は二万で考えてますから!」
「たけーよ!割り勘にすんぞ!」
そんなやり取りをしてる間にビールと枝豆が運ばれてくる。
キンキンに冷えてやがる……!
昔は苦いだけだと思ってたのに人の味覚も変わるもんだ。
これのためだけに仕事をしていると言う人の気持ちも分らなくは無い。
乾杯も終わり、チビチビと肉をツマミながらサラリーマン恒例の職場の愚痴大会だ。
『それ楽しいんすか?』とか聞かないでくれ。決して楽しくは無い。
「本当にさぁ、ウチのリーダー全然判ってないよね」
「そっすねー」
「結局、方針が定まってねーんだよね」
「こっちは振り回されるばっかの立場っすもんね……」
俺も仕事量が最近増えてきて色々溜まってきているので
藤野さんくらい気軽に話せる先輩と愚痴言い合うのは、嫌いじゃないんだが
それでも、楽しさのレベルで言えば今日の深夜アニメのが上だろう。
『妹がマジで俺の彼女とステゴロしてる』>『俺らの愚痴』
そんなわけなんで藤野さん終電までには解放してください。
今日はマジで修羅場が発生する予定なんで、見逃すわけにいは行かないんです。
しかし、藤野さんは程良くお酒が入り、何時も以上に饒舌だ。
色んな方向にポンポン話が飛んでいく。これ大丈夫だろうか……色々と。
「本当に十年前の俺に言ってやりたいわ。ネームバリューだけで良く調べもしねーで会社選ぶなって」
「確かにそれは思いますね」
十年前……俺はまだ高校生か。
あの頃は毎日ゲームしてたな。今はクリアしてないRPGは何本溜まってるんだろう。
土日でプレイしようと思うのだが、こうやって飲んで帰って寝て昼に起きると
もうその時点でプレイする気が起きなくなる。
ゲーム博士って呼ばれてたあの頃の俺の情熱どこに行っちゃったんだろう。
だが、もしも十年前に戻れたら、俺は何をするだろう。
一度クリアしたゲームもう一回やるだろうか?微妙だな。
あの頃にプレイしたゲームは良い思い出として記憶しておく方が良い気がする。
戻れるなら、タブレットPCは持って戻りたい。色々過去から未来への情報を詰めて。
少なくとも未来判ってれば金には不自由しないだろう。
これぞまさに経済チート。現実世界での無双モードと言うやつだ。
絶対にあのタブレット作った会社とか、あのゲーム機作った会社とかの株は買う。
「十年前の俺に忠告出来るなら……確実に儲かる株買わせますね」
「キリちゃんは俗物だねー ロマンが無いよロマンが」
はい、知ってます。
俺ほど小物で俗物な奴はそんなに……いや、結構いそうだな。
ただ、俺は割とロマンチストな方だと思う。
未だに運命の超美少女との出会いとか信じているから。
この夢だけは無くさないように生きて行こうと思っている。
「そーいやさ、キリちゃんさぁ……」
「はい」
「彼女出来た?」
「………まだっす」
「ロマンが無いから彼女も出来ないんだよ」
「そんなもんっすかね」
いや、むしろロマンティックが溢れ過ぎてるから彼女出来ないんだと思います。
絶対にここまで来たら妥協などしない!それが彼女居ない歴二十六年の矜持!
それにしても本当にこの人はポンポン話が飛ぶ。
唐突にコイバナ止めましょうよ。
誰が得するんですか、この会話で。
主に損するでしょ、俺が。心に傷を負うでしょう!
「そんなキリちゃんに朗報だ」
「嫌な予感しかしないんですけど」
俺の勘は悪い事に関しては良く働く。
今のこの先輩の目は、何か面白い玩具を見つけた目だ。
「丁度、すぐそばに君と同年代と思われる二人組みの女の子がいる」
「はぁ」
藤野さんは通路を挟んで隣に居る二人組に目をつけたようだ。
何を言われるかは想像がつく。今までも同様の事は何度か有った。
「行ってきたまえ、桐嶋隊員!」
「そう言うと思いましたけど……普通に無理っすね!」
悪いが、俺は酔った勢いでそういう事出来るタイプじゃない。
しかも、二人とも結構可愛い。無理っす。俺人見知りなんだから!
営業すら本当は行きたくないのに!無理して営業モードの人格に切り替えてやってるだけなんです。
仕事だから仕方なくやってるんであって……プライベートじゃ無理です。
「大丈夫だって、向こうも酔ってるし行ける行ける」
駄目だ。こうなったこの人はもう言う事聞かない。
マジで嫌だけど、ここは軽く声だけ掛けてお断りされるしかない。
来週の月曜日、職場でネタにされるだろうが……と言うか絶対にこの人それが目的だよ。
焼肉代の代償は、俺の精神ポイント百くらいか。意外と高い。
俺は覚悟を決めて思考を営業モードに切り替える。
さて、どう話かけたもんか。まずはシミュレーションしよう。
『あ、あああのー、ぼ、ぼぼぼくらと飲みませんか?ドゥフフフ』
…………駄目だ、これ。物凄く悪い方向にシミュレーションしてしまう。
女の子に話しかけるボキャブラリーがどう考えても不足している。
じ、情報収集しよう。まずは彼女達の会話に耳を傾ける。
何かアニメの話とかしててくれないかなぁ……
今期のアニメで何が一番面白いかって話ならば小一時間は余裕で行けるのに。
「ここは私がいるべき世界じゃない……」
「まぁた、その話?エリ飲むといっつもそうだよね」
「違うの聞いて!私は本当は……世界を変えるだけの力を持つ魔術を……」
「はいはい。すいませーんウーロン茶くださーい」
「聞いてってばー!それについに見つけたの!鍵を……」
…………
OL風の恰好をした二人組は、一人が、完全に酔っているもう一人を介抱している感じだ。
酔っている子は、長く伸ばした黒髪がとても綺麗で、普通にしてたらとんでも無い美人だと思うのだが
こうなってしまうと、その美貌も何だか残念な風に見える。
「藤野隊長、無理っす」
「無理だな」
俺にもああいう時代無いとは言わないが……
流石にこの年ではねぇ……まぁ、あの子かなり酔ってるっぽいし
酔うと不思議ちゃんになるとか、そういうのなのだろうか。
お陰様で藤野さんの興味も無くなった様だ。ありがとうエリちゃん。
正直言って、ああ言う残念な美人と一度飲んでみたい気もするが……
俺には、あの場に飛び込むような勇気は無い。
「エリー、ウーロン茶来たよ、」
「あたひは酔ってない……」
「いやー、酔ってるって、ほぼヤバイ人だよ」
「もうすぐミエナイブログが扉を開く……クー……」
エリちゃんは最後まで電波な事を口走って眠ってしまったようだ。
程なく、連れの女性が会計を済ませて店を出て行った。
「なんか凄かったなぁ。お前、着いてってやらなくて良いの?}
「……話しかけてすらないんですが」
「キリちゃん、ああいうの好きそうじゃん。お前の好きなアニメもあんな感じだろ?」
「は、ははは……」
マジで苦笑いしか出てこないんですけど。そして否定出来ないんだけど。
でも、ミエナイブログって……どっかで聞いた事あったような。
どこかのアニメのネタだったかな?
「惜しいなぁ。こういう所から恋が始まったりするんだよ」
「マジっすか。俺も今後のために何か漢字使いまくった必殺技とか考えといた方が良いですかね?」
「良いじゃん良いじゃん!二十六歳の中二病!」
「十年以上前に一度、卒業したんですけどね……」
程なくして俺は藤野さんと別れて帰路に着いた。
終電を乗り過ごす事も無く何とか「妹がマジで俺の彼女とステゴロしてる」の第六話には間に合いそうだ。
この時点では、俺はまだ平穏で平凡な日常の中に居た。
しかし、平穏や平凡とは真逆なナニカが、既に俺に近づいて来ている事を当然ではあるが、今の俺は知る由も無かった。