第三十八回
完全なノータッチ・エースのように、テニス場で茫然と相手のサーブ球を見送ったレシ-バーの気分だ。
「…だから、私と際ってくれません?」
珠江がナイフとフォークを皿において、まじまじと圭介を見つめ、そう呟いた。
「…僕と?」
どぎまぎする自分が圭介には分かる。何かの間違いだろう。二十以上も歳の差があるのに…と、圭介は巡った。この娘は新入社員の頃からよく知っている。綺麗な娘だ…と、思ったりもした。だがそれは一線を画す上司としての感情であり、恋愛対象としてなど烏滸がましいという発露を秘めた傍観的感情であった。その自分が今、際ってくれと云われている。喜び以上に疑心が沸いて、圭介は、いつになく戸惑うのだった。
「私も今年で三十。そろそろ真剣に結婚を考えてみようと思ったんです…」
「で、それが、この僕?」
何故なのか…と、尚も不可解に思えて、なんとか続けざまに打たれるノータッチ・エースをリターンで阻止しようと圭介は意気込む。暗いテーブルに、ひときわ映えるキャンドルの炎が空調の微風に揺れる。その薄オレンジの照明光が柔らかく二人を包む。
「僕なんかでよかったら…」と、圭介は返球した。すぐに、「よかった…。少し恥しかったんです」と、はにかんで、珠江はふたたび右手をワイングラスに伸ばし、残ったワインを飲み干した。圭介も無言のまま食事を再開した。