第三十六回
まず、身体の全体に力が入らない…などと云った。これは、まだ予兆であった。次に身体の移動時に辛そうな表情を顔に出すようになる。我慢強い母がこのような表情を見せるのは余程のことだ…と、圭介は思った。それに付随して語り口調の覇気が失せた。
抗癌剤の薬物投与による進行阻止にも限界がある。三島はそのことを圭介に詳述したが、圭介自体は微かな望みを捨てている訳ではない。だが、肝臓近くのリンパ節に病巣を持つ癌細胞は急激な増殖を始めている。痩せ細った昌の手首、そこに射ち込まれる点滴の管…、圭介には見るに忍びないものがあった。昌が食事を拒むようになった。食べられない・・と云う。
「再手術? とても無理です。そうですね…、あと長くてもひと月、もっと早まるかも知れません」
三島は医師として、正確な余命期間の診断を下したのだろう。圭介には、その言葉に抗するひと言もなかった。
「出来るだけ母が苦しまないように御願い致します」と懇願するのが、今の圭介には関の山なのだ。「分かりました…」とだけ、静かな小声で吐いた三島の視線は、いつぞやの時と同じで、宙を泳いでいた。痛みの走らないモルヒネ投与、これは、“意識を落とす”とも云われる医療行為である。三島はそのことに言及して、
「主だった方々には今の内にお見舞いに来て戴いた方が…」と、薬剤を使用する前の注意を促した。母には叔父の耕二以外は兄弟がいない。そうなると、見遣るといっても圭介と姉の智代ぐらいである。