第三十四回
追い立てられた訳ではないが、そう云ってしまった手前、「そいじゃ母さん、また来る…」と足を動かし病室を後にした。空調の適度に利いた病院内から自動ドアを境にして一端、飛び出すと、ムッとした灼熱の暖気が全身を包囲して攻め立てる。それも急襲だから、圭介は思わず顔を顰めると、背広の上着を脱ぎ捨て、片手に持った。
社内は昼休みに入っていた。部長付秘書の珠江が、汗を拭きながら扇子をパタつかせて入ってきた圭介に気づく。「次長、今日は?」と、咄嗟に聞かれ、「うん、…いやあ一寸ね」と、適当な曖昧さで濁す圭介に、冷たい麦茶を運んできた珠江は辺りを見回す。他の社員連中は、社内食堂とか近くの店へ食べに出ていて、今の室内は蛻の空である。
「今日の帰り、お食事でもどうですか?」
不意に予期せぬ言葉が、圭介の耳元でする。
「えっ! どうかしたの? 俺みたいなジイさんと…」
珠江は今年で三十になった。まあ普通のOLなら、結婚して子供の二、三人は育てている歳である。彼女が入社した頃は、『たぶん、奴は早く結婚して、円満退社するよ…』と、若い男性社員達から風評が飛んだものだった。結局、二度の恋愛が実らず、この齢になってしまったのだ。いわゆるオールド・ミスの立場にあった。決して容貌は悪くはない。それどころか、圭介の好みのタイプだ。高嶺の花と長年、諦めていたものが、いったいどういう風の吹き回しなのか…。圭介には、その辺りのところが不可解なのである。