第三十二回
こんな好意をして貰えようとは、お釈迦様でも御存知あるめぇ・・なのである。圭介の内心は喜色ばんでいた。 ━ この娘とデートできたら…、一度は誘ってみる価値はある。断られて元々か… ━ そんな都合のよい発想が一つの紙コップから生まれている。母には申し訳ない別の感情なのだが、或る意味で安心させるという点では親孝行な発想なのか…と、圭介は巡っていた。昌がこんなときに不謹慎にも思えた。人間は詰まるところ御都合主義の生き物なのか…と、時が経過していく中で少しずつ膨れた心は瓦解していった。圭介は気を取り直し、机上の決裁書類に目を通した。
昌の入院直前に、一つの異変が起きた。
「ここ一週間前から手先に力が入らなくなってねぇ、お茶碗を割ってしまったんだよ…」
情けなそうな気弱な声で昌が云う。会社帰りの圭介は、「ふーん」と、その場は聞き流したが、自室で着替えながらそのことを考えると、恐れていた事態が起こりかけているのか…などと思えてくる。一刻の猶予もならない。幸い、明日、入院の手筈になっているから一応は安心なのだが、確実に死への一歩を歩んでいる昌を見るに忍びない圭介なのだ。辛い。
ヒ-ト・アイランド現象とか何とか…、圭介の小さい頃には聞かれなかった気象用語が、最近、この都会でよく耳にするようになった。確かに、真夜中だというのに、日中の暑気がなかなか消えない。結果として、寝苦しかった。無論、眠れないのがその為ばかりではないことは、当の圭介が一番よく知っていた。