09
目を覚ますと、自然に当たり前のように腕時計で時間を確認する。デジタル表示で示された時間は午前授業が終り、ちょうど昼休みに入ったところだった。
意識が回復してきて、一番最初に感じたのは胸の下辺りの鈍い痛みだった。その痛みはそんなに強いものではなく、しかし確実にズキズキと感じ取れるほどの痛み。
「あうぅ、痛い」
手を胸の下に伸ばしてみようとして初めて、私が布団の中に横たわっている事に気が付く。
「……なんで布団のなかに?」
呟きつつ周りの状況を確認する。私に掛けられている布団のカバーは白く、今寝ているのはベッドらしい。それ以外は白いカーテンに仕切られていて分からない。
ぼんやりとした頭で思い返す。
たしか私は美佳子と一緒に登校して、そして教室に向かう途中の階段でバランスを崩して、美佳子に支えてもらって立ち上がり…………あれ? その後が思い出せない。もしかして、またやっちゃった? えっ、でもでも、階段で気を失ったにしては痛む箇所が胸の下だなんて、どういう落ち方をしたんだ、私?
それよりも階段から落ちたとしたら誰かを巻き添えにしてないよね、もしも巻き添えにしてたら私は……私……。
不安が心の中を駆け巡り、居ても立っても居られなくて思わず起き上がる。
それと同時に白いカーテンが開き、そこから美佳子がひょいっと顔を覗かせた。
「起きてたか。どお、体の調子は?」
美佳子は私の顔を見ると表情を緩め、そう言いながら私のそばに立つ。
「みっちゃん、また私、急に意識なくなったんだよね……じゃあ、じゃあさ」
美佳子の顔を見据えて懸案のことを訊こうとすると、美佳子は私の肩に手を置き口を開く。
「そうだけど、そう不安そうな顔はしないの。大丈夫、確かに美咲は気を失って階段から落ちそうになったけど、美咲自身は怪我をしてないし、誰かを巻き込んで怪我をさせてないよ」
「……そう」
よかった、と思う。もし誰かを巻き込んで怪我をさせてしまったら、絶対に自分の事が許せないと思うのだ。それこそ自分の体調管理が原因なら尚更許せない。
「それにしても本当に前触れなく気を失うものなんだね。美咲の体を支える余裕がなかったくらいに、アッと言う間もなく力なく倒れていったからね、とっさに対応できなかったよ。あはは」
美佳子は変な笑い方をしながらベッドに腰を掛けると、ホッとした表情をこちらに向ける。
「でも良かったよ、美咲に怪我がなくて。段数は少ないとはいえ階段から落ちれば、多かれ少なかれ怪我はしていたと思うよ。だから、ちゃんとお礼言っときなさいよ、樋口健祐君に」
「えっ?」
突然、美佳子の口から樋口君の名前が飛び出したことに、私は驚きを隠せなかった。
「どうしてそこで樋口君の名前が出てくるの? それに助けてくれたのは美佳子じゃないの?」
美佳子は首を横に振る。
「いんや、違うよ。私は突然のことに驚いちゃって何にもできなかったもん。気を失った美咲を転落から守ったのは、美咲と同じクラスの樋口健祐君だよ」
仲直りをしようとは思っていたとはいえ、昨日、あんだけ言い争った相手なだけに複雑な気分になる。どんな顔をして樋口君に会えばいいんだか分からない。
「それにしてもその樋口君、男子にしては小柄な割に結構パワーがあるんだね」
「そうなの?」
「うん。いきなり気を失って倒れてきた美咲を、体勢は崩しながらも受け止めたんだから結構パワーはあると思うけど」
普段の樋口君からは想像できないけど、やっぱり男の子なのだ。当たり前だけど。
「ねえ、その時の――私が気を失って倒れた状況を教えてくれない?」
「別にいいけどさ。起きたばかりみたいだし、この話はまた放課後にでもしよう」
「いいから、今聞かせて」
美佳子は溜息をつき、「まったく」と呆れ顔で言うと、表情を戻し回想する。
美佳子の説明によれば、私の倒れた状況は次のようなものだったみたい。
私が階段で転びそうになり、そこから立ち上がった途端、全身の神経が一気に仕事を放棄したかのように、私の体は何も抗いもせずに後ろへと倒れていった。突然のことで美佳子は私の手を掴むこともできなかったそうだ。それは仕方がないと思う。私が同じ立場でも何もできなかったはずだ。だから美佳子が気にすることは何も無い。ただ、私の足はそのまま階段を踏み外してしまい、踊り場まで転げ落ちるかと、美佳子は思ったそうだ。だけど、そうはならなかった。たまたま後ろにいた樋口君が私の体を受け止めたからだ。樋口君は受け止めたと同時に、私の脇の下から腕を前に回し、もう一方の腕を伸ばし手で手すりをしっかりと掴んだ。しかし、それで私の体の落下の勢いは止めらたわけでなく、落下する勢いで樋口君の体に遠心力が働いてしまい、吸い寄せられるように手すりに背中を打ちつけてしまう。ただ幸いなことに樋口君は校内では珍しく、学習用具入れに鞄ではなくリュックサックを使用していたため、リュックがクッション代わりになったらしく意外と平気だったみたい。
「それにしても彼が受け止めてくれて本当に良かったと思うよ。彼がいなかったら今頃、救急車で病院送りだったかもしれないし、いま思い返すと怖いくらいだよ」
美佳子は心の底からそう思っているようだ。
その後、樋口君は私の体を抱えたまま階段に腰を落としていった。両手で数えられる程の人がその光景に出くわし、そして騒然とした空気になった。そんな中、美佳子は私に近寄ると、しゃがんで私の顔を両手で支えて声を掛けたそうだ。私はその呼びかけに若干反応すると、開いているのがやっとだった細目を閉じていった。
「心配したんだからね。目を閉じて、ぐったりとした美咲の姿を目にした時は。頭打ったんじゃないかとか考えちゃって、泣きそうになるくらい動揺したんだから」
そう言う美佳子の横顔はどことなく安心感をかもしだしている。
気を失った私の体は美佳子と樋口君によって一度踊り場に寝かされた。そこで樋口君が手首の脈や呼吸を確認して、樋口君は長身の男子生徒にリュックを預けると、私を負ぶさり階段を下りていき保健室まで運んだ。そして今に至ると。
「大体こんなところかな、朝の出来事は。それにしても彼――樋口君には驚かされたよ。あんなに手際よく対処できちゃうのだから、やっぱり人は見掛けで判断できないよね」
考え深げな美佳子。
「ありがと、聞かせてくれて」
私はお礼を言うと、布団から足を出して、そのまま足を上履きに滑り込ます。
「ちょい待ち」
美佳子は、上履きを履き今にもベッドから立ち上がろうとする私を止める。
「どうせ美咲のことだから樋口君にお礼なり謝罪をしに行くんだろうから、寝てろとは言わない。その代わり、また倒れられても嫌だから教室まで私もついていくよ。いいよね」
美佳子は立ち上がり、私の二つの荷物を持つ。
「うん、心配掛けて、ごめん」
美佳子は微笑んで「いいよ、別に」と言ってくれた。
保健室を退室時にちょうど養護教諭の鈴木先生と鉢合わせになり、ちゃんとお礼を言って退室した。鈴木先生は二、三質問して、それに答えるとあっさり退室を許してくれた。やっぱり、たいした事はないようだ。私と美佳子はそのまま校舎三階の私のクラス前に直行することにした。さすがに昼休みということもあり、廊下や階段には学年関係なく人が溢れていた。その中を美佳子に荷物を持ってもらい、普段より少しゆっくり目な歩調で三階の教室まで上がっていった。
「はい、どうぞ。みったん、荷物」
教室の前で荷物を美佳子から受け取る。
「本当にありがとう。でも、みったんはやめて。恥ずかしい……」
「最初に、みっちゃん、と言ったのは美咲のくせに。でも久しぶりに呼ばれたわ、その呼び名で。懐かしいよね、あの頃は身長が同じくらいだったに、今じゃあこんなに美咲が小さくなっちゃうのだから時間の経過は残酷だねぇ」
「うるさい、美佳子が勝手に大きくなっただけじゃん。――それじゃ、ありがと。お昼まだなんでしょ? もう戻っていいよ、大丈夫だから」
「うん、そうする。だけど気を付けなさいよ、今度倒れる時は誰も助けてられないかもしれないのだから。要するに無理はするな、ってことだよ」
「分かってるよ」
「そう。ならいいや、教室に戻るよ」
まるで母親みたいな事を言って、美佳子は自分の教室に戻っていった。でも幼馴染に心配を掛けて、そう言わせてしまっているのは私だというのは重々承知しているつもりだ。
美佳子を見送って自分の教室に入ると、一瞬クラスメイトの視線が私に集まり、そして散った。教室にはお弁当持参組がいて、一人で食べている人、複数で食べている人達がいる。あとの人達は学食とかを利用しているから、この時間帯にはあまり見かけない。自分の席に着くと荷物を机の上に置いて教室を見回すが、予想どおり樋口君の姿はなかった。
「ミサキ、重役出勤とはいいご身分ですなぁ」
にやけ顔でそう言ったのは、隣の席で昼食を一緒に食べることの多い笹木麻衣だった。
「えっへん」
「そんな事より、もう大丈夫なわけ? 朝、階段で倒れたって聞いたけど」
私が胸を張ってみせたところに、麻衣と向かい合っている森田彩香が訊いてきた。
彩香は麻衣の後ろの席で、だいたいこの二人と昼食を一緒することが多い。
「うん、もう平気だよ。今日はちょっと眠れなくてね、でも午前中いっぱい眠れたから平気」
「そう」
彩香は納得したかのような表情になると、すると麻衣が喋り出す。
「でもさ、美咲を受け止めたのが、うちのクラスの樋口というのは意外な感じがするよね」
「どうして?」
私が疑問を口にすると、それに答えたのは彩香だった。
「麻衣の言う事も分かるような気がする。実際はどうだか知らないけど、樋口って男子の中では背が低い方で線が細い印象があるから、倒れてきた美咲と一緒に落ちちゃいそうだから意外と言えば意外かな。でも美咲は私とかとは違って、樋口と親しいから印象が異なるかもしれないけどね」
「ううん、そうでもないかな。だいたい私もそんな感じに感じてたから、昨日は驚いた」
「あ、それ、私もビックリした」
麻衣はミニトマトを口に運びつつ同意する。
「――(ごくん)あの温厚そうな樋口が美咲とあんなに言い争うとは思わなかった。でもさ、どんな奴にも本気で怒るときがあるんだなぁ、って思った」
「そりゃ、どんな奴だって怒るときはあるでしょ。まあ、あんな公然の面前で言い合う勇気は私にはないけれど」
彩香は言い終えると私を見る。どうやら私と樋口君に対しての事らしい。
「そういえば私、用事があるんだ。それじゃ私、行くね」
「いってらっしゃい」
「いってらー」
二人は私がこの後どこに行くのか解っているかのようなに――たぶん実際に解っているのだろうけど、二人して手を振って見送ってくれた。
はぁ、私の行動は他の人から見たらそんなに解り易いのだろうか?
などと思いつつ同じ校舎内にある図書室に向かう。たぶん、樋口君はそこにいるはずだから。
普段の樋口君は昼食を教室で食べている事が多い。しかし、時々ではあるけど私とお昼を一緒にする事がある。それは私が樋口君に愚痴を聞いてほしい時なんかに限られるのだけど(樋口君にはなぜか愚痴を話しやすから)、だいたいそんな場合は学校の敷地内の隅っこにあるベンチで私が一方的に喋り続け、それを樋口君が聞きながら昼食をたべている。ただ、たまに樋口君はお昼を食べないで図書室に行くことがある。でも、樋口君がお昼を抜いてまで図書室に行く理由は知らない(まあ、本を読みに行ってるんだろうけど、私に樋口君が何を読んでいるのか興味がないだけだったりする)。
昼休みで緊張感から解放されて賑やかな校内を通って図書室前まで来ると、私はそっと図書室内に入室し、開けた扉を閉める。扉を閉めた途端、校内の賑やかさが嘘みたいに室内は静かになった。
図書室内は幾つも本段が並び、個別な机に長い机が並ぶ。その室内を見回すと、そこには本を探す人、本を読んでいる人、ひそひそと話している人たちが両手で数えられるくらいいる。
さて、樋口君はと――いない?
出入口付近からでは樋口君を見つけられず、私は室内をゆっくり歩き回る。
「あ、見つけた」
間もなく長机で椅子に座り背もたれに寄り掛かる樋口君を発見した。その樋口君の様子は、完全に身体に力が入っておらず両腕はダランとぶら下がっていて、今にも椅子からずり落ちそうな格好で目を瞑っていた。
よくこんな恰好で椅子から落ちないなぁ。
私はそんな事を思いつつ、なるべく音を立てないように樋口君の隣の椅子に座る。
樋口君の前の机にはレポート用紙に筆記用具、いつも掛けいる眼鏡、それにキャラクターが描かれたクリアファイルがある、
「子供じゃないんだからキャラ物ってどうよ」
半分呆れつつ呟くと、頬杖を突いて視線を樋口君の顔にもっていく。
こうやって眠っている顔を見ても顔立ちの良さは変わらないなぁ。まあ、だから女装してもあんなに可愛くなれちゃうんだろうけど。はあ、それにしても気持ちよさそうな寝顔してるよなぁ。
私は何にも考えなく樋口君の顔に手を伸ばし、頬を指で軽く突っついた。本当に何気なく手を動かしてしまったものだから、次の瞬間、樋口君と目が合った時には驚いて体が固まってしまった。
「あっ」
「『あっ』って、何やってるの美咲さん」
樋口君は眠たげな眼をこちらに向けながら、自分の頬を突っついていた私の手を素早く掴んだ。そして、私の手を掴む手に力を入れる。
私は掴まれた手を引っこ抜こうとしたけれど、全く樋口君の手を外せなかった。
「その手、放してよ」
「い・や・だ」
樋口君が寝ぼけた様なままの笑顔で言うから、私はついイラッとしてしまい目いっぱいの力で自分の手を引き寄せた。すると、元々椅子から落ちそうだった樋口君はバランスを崩して椅子からずり落ちてしまい、そして、手を掴まれていた私も樋口運に引っ張られ形で前のめりに樋口君の上に倒れ込んだ。
「……いたた。いきなり何をするかな」
「今のは樋口君が手を離さないのが悪いんでしょ」
私はそう言いつつ、起き上がろうと腕に力を入れて上半身を起こした。すると私の両手は樋口君の両肩を押さえつけ、さらにお尻の下には樋口君のお腹があり、まるで私が樋口君を押し倒したような形になっていた。
「こんなところで男子に乗っかるなんて結構大胆ですなぁ、美咲さん」
樋口君はそう私にだけ聞こえるような小声で言うと、ニヤリと歯を見せる。
「違っ……違くはないけど、そういうのとは違う」
思っていた事を見透かされたようで動揺し、じんわりと顔が熱くなる、。
「美咲さん、冗談だから早く立ってくれるかな」
「あ、ごめん。すぐ立つから」
慌てて立ち上がろうとすると、樋口君は私のスカートの裾を握った。
「な、なにっ?」
「そのまま立ち上がると、僕からスカートの中が見えそうなんだけど」
「あっ」
途端、全身に熱が帯びてきた――。
その後、私と樋口君は図書室を出て、屋上と四階の間の踊り場に移動した。途中、樋口君は図書室の横にある自動販売機でコーヒーしては甘い缶コーヒーを買っていた。
「それで話したい事って、なに?」
屋上に続く階段に腰を下ろす樋口君は、どことなく目蓋が重たそうで眠たげな表情をしている。
「ごめんね、眠たそうなのに付き合ってもらちゃって」
「別にいいよ。でもまあ、昨日の今日だから要件は見当がついてるけどね」
私は踊り場に立ち、樋口君と目線を合わせる。
「だったら話は早いかな。えーと、昨日は言い過ぎたと思います。その言い過ぎた暴言につきましては謝ります――ごめんなさい」
頭を下げる。そして、頭を上げて樋口君を見つめる。
「でも、昨日の私の言った事を変える気はないから。それでもよろしければ、仲直りしませんか?」
「うん。僕の方こそカッとしちゃったしね、僕も謝るよ。ごめんなさい。それに、別に美咲さんは意見を変える必要はないよ。どんな場合でも嘘を吐くのはいけない事だ。仮に嘘を吐くなら嘘を吐く側が覚悟を決めればいい。どんな嘘も正当化はできやしない、例えそれが正しいと思って吐いた嘘であっても」
「樋口君、なに言ってるの?」
私が思った事を口にすると、樋口君は口に手を当てて欠伸をした。
「今のは、昨日の件で僕なりに考えて出した答えみたいなもの。つまり美咲さんは間違っていなかったって事だよ」
「そう。だったら私と仲直りしてくれるんだ」
「うん」
「じゃあ樋口君、右手を前に出してくれませんか」
そうお願いすると、樋口君は不思議そうな顔をしつつも私に手を差し出す。
「これでいい?」
私は差し出された樋口君の右手を右手で握り、少し強めに握手をした。
「んー、この握手は何?」
「仲直りの証、みたいな感じ」
私は小さい頃から誰かと喧嘩をして仲直りをする時には、こうやって謝ってから相手と握手をして仲直りをしてきた。握手は仲直りの印みたいなのであり、仲直りの儀式いたいなものだ。ただ、小学校高学年以降になってくると、この儀式も美佳子くらいにしか行う機会はなかったのだけれど、なぜか今はこの仲直りの儀式をやりたいと思った。
握手の意味を一応説明したら、樋口君は可笑しそうに笑みを浮かべた。
「あっー。今、子供っぽいとか思ったんでしょ」
「いや、そんな事はないけど――そうか、小さい頃からの仲直りの儀式か」
そう言う樋口君は笑みを浮かべたままだけど、なんとなくその笑みが途中から若干優しさが加わった感じがした。
「あー、樋口君。あと、お礼も言わせてくれるかな」
私は樋口君と握手したまま言う。
「朝は危ないところを助けてくれたみたいで、ありがとうございます。その時の事はまったく憶えていないのだけど、落ちて――じゃなくて、倒れてきた私を受け止めてくれて、ありがとう。おかげで怪我をしないで済みました」
私は再び頭を下げる。今度は感謝の気持ちを込めて。
「いえいえ、驚いたけどちゃんと受け止められて良かったと思うよ。それに、上から落ちてくる女の子を受け止めるのは物語の主人公っぽくていいよね。ちょっとしたヒーロー気分を味わえたよ」
「しかし、その受け止められたヒロインにはすでに別の王子様がいました、ってね」
そこで樋口君の手を放すと私は、樋口君と向き合ったまま一歩後ろにさがる。
「しかも、そのヒロインは王子様が大好きなあまりに王子様の前だといつもの率直さが鳴りを潜めしまい、言いたい事も言えなくなっちゃうような恋する乙女に変身してしまうのでした」
樋口君は語り口調で言うと、私を見て二ヤリと笑った。
「うるさいなぁ、そんなこと彼女のいない樋口君には言われたくありませーん」
「今の話と僕に恋人がいないのとは関係ないと思うけどね。それにいつも惚気話を一方的に喋っているのは美咲さんだという事もお忘れなく」
樋口君に何でも喋りすぎかなぁ、私?
ここで一端会話が途切れた。
会話が途切れると下からの他の生徒達の騒がしさや、外の雨音が意識しなくても耳に入ってくる。べつに騒がしさは気にはならないけれど、しかし地面や校舎を打ちつける雨音が聞こえると、なんだか落ち着かない気分になってしまう。たぶんそうなってしまうのは、あの三ヵ月前の事件が終わった夜の事を思い出してしまうからなのかもしれない。今でも雨音を聞くと、あの冷たかった雨粒の感触とかが鮮明に蘇ってくる事がある。
「樋口君、今日は眠そうだね。ふふーん、どうせ夜遅くまでエッチなものでも見ていたんでしょ、そうなんでしょ。ほんと男の子はエッチだよね」
気分が落ち込みそうだったから意識して明るめの口調で言った。
「僕を含めた大多数の男がエロいのは認めるけどさ、昨日の夜にエロいのは見てないから。それに昨日の夜から今日の朝に掛けて色々やっていたら、いつの間にか朝になっていて眠れなかっただけ」
「色々っていう辺りが気になるけど、訊かないであげる」
「それは、どうも」
「それじゃ、用件は済んだから私は教室に戻るよ。樋口君はどうする?」
私がそう尋ねると、樋口君は腕時計に目をやる。
「昼休み終了まであと十分か。それまでここで何にも考えずボーっとしてようかな」
「ふーん、そう。そんじゃ、降りてくる時は私みたくボケーっとし過ぎて階段から落ちないよう気を付けてね」
「うん、せいぜい降りる途中で眠らないように気を付けるよ」
そこで私と樋口君は小さく笑う。別に可笑しかった事もなかったのに笑い合った。
「樋口君、今日は色々とありがとうね」
私はそう言って樋口君の前から立ち去った。