30
今の私たちは腕時計も携帯電話も持ってはいない。だから現在時刻も、休憩し始めてどれくらい経過したのかも分からない。でも私の感覚では休憩をし始めて五分も経っていないと思う。それでも樋口君は疲れた様子も見せずに立ち上がり、窓の前に立つ。
「なにをする気?」
「このガラスを壊して外に出る。この中をこのまま歩いていても外に出れるかどうか分からないし、それになんだか嫌な感じがするからね――とか言ったけど、本当はただ真っ暗な中を歩くが怖いだけかもしれないけどね」
樋口君は小さく笑いながら、窓ガラスを指でなぞる。すると指でなぞった部分が微かに発光している。その微光は魔力のオーラと同じ緑色をしていて、その微光の線で描いていく模様は円を基本としたもので、その円の中にひし形や四角形の図形が足されていく。
「でもここ二階だよ。飛び降りたら怪我しちゃう」
「体力はぎりぎりでも百キロくらいなら、ゆっくりと降りる事くらいはできるよ」
樋口君は魔法陣を描きおえると、窓ガラスから少し離したところに立って手の平をかざす。すると魔法陣が輝くと同時、瞬時に窓ガラス全体がスノーパウダーみたく木っ端微塵になった。木っ端微塵となった微細なガラス片が床や外に落ちていく様は月明かりに照らされてキラキラと光って綺麗。
「……綺麗」
こんな状況でも綺麗だと感じることに少し驚く。
「このサラサラ感は、まるで塩だな」
そう感想を述べる樋口君の髪の毛は揺れていた。それは、窓ガラスが無くなったおかげで外の空気が流れ込んでからだろう。
「風が吹いて、気持ちいい」
「この中は蒸し暑かったから余計にそう感じるんじゃない」
樋口君はそう言ったけれど、私はそんなに蒸し暑いとは感じていなかった。だって、ブラジャーにパンツ姿だったし、歩いていた樋口君とは違って私は背負われていただけだから、蒸し暑いと感じるほど熱は発していない。
「どう、痛いところはない?」
樋口君は私の前で片膝を着き、目線を合わせて聞いてきた。
大丈夫だと、私は頷く。
私の体には痛いところはない。だけど、ここに来て強烈な不安感に襲われてしまい、突然ぽたぽたと涙が流れ落ちる。自分でも何が不安なのか分からないけど、心の中で不安な気持ちが膨れ上がるのは嫌でも分かるのでした。
「……大丈夫だから。すぐに落ち着くから先に進んで」
涙を拭いながら私がそう言うと、樋口君は戸惑い気味に頷く。そして、ゆっくりと私を背負ってから立ち上がり、窓ガラスが無くなった窓の反対側の壁沿いに立つ。
「これから窓から飛び出す。できるだけ力いっぱい摑まって」
私は可能な限り腕や脚に力を入れ、樋口君の背中に胸やお腹を押し付けてしがみ付く。
「行くよ!」
樋口君は若干姿勢を低くすると勢いよく走り出し、すぐに腰くらいある窓枠に足を掛けると走り出した勢いそのままに外に飛び出した。
飛び出した瞬間、私は目を瞑ってしまった。だけどすぐに恐る恐る目を開くとそこには、月明かりに照らされた樋口君の横顔が間近にあった。樋口君は真剣な表情で俯き加減で、地面を確認しているように思えた。
しかし、二階から飛び降りたにも関わらずジェットコースターに乗って感じる内臓が浮き上がるような感覚はしない。顔を動かして正面を向くと、そこには背の高い木木が生い茂っている。だけど、おかしな事にその背の高い木木たちは、急激に成長しているかの様にどんどん背が伸びていく――ように感じられたけれど、実際は私達がゆっくりと降下しつつ木木に近づいているだけだった。
そして視線を落とすと樋口君のスニーカーが見え、そのスニーカーを包むように緑色のオーラが半球状になっており、なんだか宇宙船が大気圏に突入してるみたい。そしておそらく、この位置からスニーカーが見えるという事は、今の樋口君の姿勢は重心を後方においている事は推察できた。しかし、私の体が重力によって後ろに引っ張られていない。だとすると樋口君の今の体勢は『く』の字に近いのではないだろうか。
体を捻って下を覗くと、地面をゆっくり流れる私たちの影は、地面に近づくにつれ徐々に大きくなっていく。そして樋口君の足が地面をつかむと、私たちの影は少しの時間だけ離れていた主人たちの下へと帰ってきた。
着地の瞬間は大きな衝撃は感じたりはしなかった。それでも着地したあと樋口君が二、三歩前に進んだ感触はあった。
「自分がどんな状態にあっても、もう少しスムーズに降りられるようにならないとか」
立ち止まった樋口君は小さくそう呟いた。
少なくとも現状から生き残る気でいる樋口君。その事が今の私にとって安心させて、今にも錯乱しそうな精神を落ち着かせる。
「ともあれ着地は成功したけど、ここは一体どこなんだろ。周りを見回してみても森のど真ん中っていう感じだな」
樋口君が体ごと周りを見回す。
それに伴い、樋口君と同じ方向を向いていた私の見える風景も移り変わっていく。
樋口君が着地したところは建物からそんなに離れてはいなくて、地面からは樋口君の肩あたりまで伸びる草が建物と木々の間にびっしりと生い茂っている。しかし、私たちの周りの草だけは綺麗な円を描くように倒れていた。
「まるでミステリーサークルみたい――というか、もしかしてミステリーサークルって、魔法使いが高いところから落ちてきた時にできるヤツだったのぉ!」
私は小さな声で驚いてみた。
「今の状況で気にするところはそこなのね」
そう言いつつ樋口君は、頭を低くし中腰姿勢のまま生い茂る草むらへと分け入っていく。すると私の身体に草の茎や葉が当たる。顔は樋口君の背中にくっつけていて、そして上半身は樋口君のYシャツのおかげで被害は少ない。ただ素肌の両脚だけは樋口君の歩みとともに、生い茂る草むらの茎や葉の攻撃を直接受けてしまい、まるで無数の小さなナイフの中を進んでいるような感じだ。
「一応言っておくと、今のは僕が着地点の安全確認のために魔法を使ったんだよ」
「なぁんだ」
「ねえ、僕の言う事はそう簡単に信じないほうがいいんじゃない? なんて言ったって、僕は嘘つきなんだからさ」
樋口君は冗談めかして言った。
「そうだね、君は嘘つきだったね。でも、今の状況で嘘を吐けるなら、私への嘘は吐きとおせたんじゃないのかな? ねえ、どう思う、樋口君」
私はいじわるな言い方で返事をした。こういう状況で自分のどこにそんな余裕があるのだろと驚くくらいの口調だった。
「まだ大丈夫みたいだね」
樋口君は頭を低くして草むらの中を小走りで突き進んでいく。
いくら満月に近い月明かりとだとしても、草むらの中を進んでいくのだから足元は視認できるはずはない。なのに、樋口君がこんな中でも転んだりする事なく前に進んでいけるのは、さっきまで真っ暗な建物内を歩いていた技術を使っているのだろう。
その時、全身に鳥肌が立ちそうなほどの寒気に襲われる。
……なに? この寒気。怖い……怖すぎて胸が変な感じがする。
「動かないでっ」
思わず頭を上げて辺りを見回そうした私に、樋口君はできるだけ声が周りに響かないように言う。その声には冷静さとともに緊張感が含まれていた。ただ、いきなり言われたから腕や脚に力が張ってしまい、それに伴い抱きつく力も強くなってしまった。
気が付けば、樋口君は片方の膝と両手を地面に着けていて、真っ直ぐ月光がほとんど届かない草むらを中で真っ直ぐ前を見つめていた。呼吸は荒く、息を吸ったり吐いたりする度に背中にいる私にその脈動が伝わってくる。
いくら少し前まで走っていたからといって、ここまで呼吸が荒くなるのもなの? さっきまでこんなに呼吸は荒くなかったのに。もしかして私の分からないところで何か起こっているのかもしれない。
【……どうする。いまので相手に僕たちの現在地が特定された――いや、特定されてないかもしれ、駄目だ。ここは特定されたという前提で動かなくっちゃ】
なによ、この頭に響く声は。幻聴、それとも――。
【でも美咲さんを背負った状態じゃ、選択肢が限られて――いや、そうじゃない。美咲さんを言い訳に使うな。見捨てて来ることもできたのを二人で脱出すると決めたのは、最終的に僕だ。であるなら僕たちが助かる道を模索しろ!】
やっぱり、これは樋口君の思考している事だ。だけど何で、樋口君の考えていることが私の頭の中に響いているの? ……だけどあの時、樋口君はやっぱり私を見捨てる事も考えていたんだ。
「じゃなくて、どうして樋口君の声が頭の中で響いているの?」
突然、そういう言葉が口を吐いた。
いきなり自分以外の声が頭の中に響いて、私は混乱している。どうして樋口君の考えている事が急に私の頭に直接伝わってきたのか? 私に樋口君の心の声が聞こえるという事は、その逆もあり得るのではないだろうか? そんな事を考えたところで今の私に答えは出せるはずはない。
知識不足に現状認識をまともに把握することのできない私には、この現象が何であるのか推測はできても答えを導き出すことはできない。ただ、私の頭に直接樋口君の心の声が伝わっているという事実だけはちゃんと認識している。原因は判らないけど。
【声? 何のことだろ。それよりも今は、後ろから飛んできた魔力波だ。最低一人は発信者がいる。そして、そのほかにも近くに敵がいるはず。できればこのまま逃げ切りたいところだけど】
樋口君は大きく息を吸って吐いた。
「美咲さん力いっぱい僕に抱き付いて。これから無茶をやる」
私の太ももを支える樋口君の手は次第に力が入っていき、今まで以上に私の太ももを樋口君の身体に押し付ける。
私もできる限り腕に力を入れて、樋口君との密着度を上げる。
「いくよ」
樋口君はそう言うとすぐに走り始めた。その走り方はさっきまでの走り方とは違い、若干姿勢を屈めているものの頭は完全に草むらの上に出てしまっていた。そして草むらを駆け抜けるスピードもさっきよりも比べものにならない程に速い。それなのに葉や茎が肌に擦れる痛みは不思議とない。
目を凝らして見てみると、私たちの身体には薄っすらと緑色のオーラに包まれていて、そのオーラが草むらを駆け抜けていることで当たったり擦れたりする葉や茎を弾いて、直接素肌に届かないようになっている。
結構速い速度で草むらの中を駆け抜けていても、バランスを崩さない樋口君。
瞬間、何の前触れもなく突然に体が押し潰されそうな感覚に襲われ、その感覚が少しの間続いたと思ったら、次の瞬間には抱き付いていたはずの樋口君の感触がなくなっていた。そして髪の毛が顔に当たる感覚に気が付いたと同時、全身に衝撃が走る。最初は右肩に強い痛みが走り、次は背中に、その次には左腕や左足に痛みが走り、そして最後には全身の前面がどこかに打ち付けられる。
……痛い。気持ち悪い……内臓全部、吐き出しちゃいそう。
どうやら自分の身に何か起こったらしい。
時間が経つにつれて、脳が全身の痛みを認識していく。そして、鼻に付く草の青臭い香りがして、口の中では土の味が広がる。
全身の各部位が悲鳴を上げるなか、いつの間にか閉じていた目を開く。
暗く、微かな明かりの中で私が認識できたことは、どうやらこの辺りの草は刈られているらしく結構視界が開けていて、どうやら私はその刈られた草の上にうつ伏せに倒れているみたい。けど、私から見えるのは刈られた草に真っ暗な空くらいで、なにが起こったのか知る手掛かりにはならなかった。
「…………いったい、何が起こったの……?」
刈られた草を握り、腕に精一杯の力を入れてうつ伏せの体を起こそうとする。
「頭をあげるなっ!」
そう誰かの声がしたと思ったら、無数の赤い光が目に映っていた。その赤い光が何であるか考える間もなく、目の前に黒い影が横から滑り込んできた。
「えっ?」
目の前で何が起こっているのか理解するのに、少し時間が掛かった。
徐々に頭の中で情報が処理されていくと、目の前の影が全身草まみれの樋口君の背中であり、その樋口君の前方には樋口君より二回りほど大きい緑色に輝く半円の何かがあるのを理解した。そして、地面に接する緑色の平らな外側に歪曲していた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
目を上に向けると樋口君の肩は荒い呼吸とともに上下している。
その時、連続して辺りを瞬間的に明るくする程の閃光が走る。その閃光に合わせるようにして『バッジュ、バッシュ』という電気がスパークしたような音がする。どうやらその閃光は、樋口君の前にある緑色の半円のものに何かが衝突して発生いるらしく、時折緑色のものに弾かれて赤い光が線を描いて後方に飛んでいく。
目の前の状況が目紛ぐるしく移っていく中、私は次に取るべき行動が分からずにいる。それでも刈られた草で覆われた地面に手をついて上半身を起こす。そして頬に付いている草を手で払い、無意識的に周りを見回す。すると、あれほど辺り一面に生い茂っていた背の高い草草が綺麗さっぱり根本らへんで刈られていた。
「いったい、何が起こったの?」
頭がすごくはっきりしない。まるであんまり眠れなかった朝のようだ。
「美咲さんっ!」
「えっ!」
目の前で自分の名前を叫ばれて頭の中のモヤモヤが吹き飛び、肌に触れる涼しい空気に、手に感じる刈られたばかりの瑞々しい草の感触が一気に現実味を帯びてくる。
「僕の手が届くところまで来れる? できれば来てほしい」
樋口君は半分顔をこちらに向ける。目映い閃光が瞬くなか、浮き上がる樋口君の表情は険しく全く余裕がなく、その表情で現状がかなり危険的な状況であると思い知る。
だけど、たった一、二メートルの距離だというのに樋口君の元に這って行くのに、体のあっちこっちが痛くて普通なら五秒もしないのはずなのにその何倍も掛かった。
「……大丈夫、樋口君」
いくら魔法の知識が乏しい私だって、現在私たちが魔法による攻撃を受けている事くらい察しがつく。
「まあ、なんとかね。悪いけど、どっちかの手のひらをこっちに向けてくれる」
「……うん」
一瞬、何をされるのだろうと躊躇った。しかし、ここまできて樋口君を疑ってもしかたないと思い直し、樋口君に右手の手の平を差し出した、だって、樋口君の内心がどうあれ、ここまで私を背負ってきた樋口君の行動は否定できないし、それに信じたかったのだ――目の前の友達を。
手の平を差し出すと、樋口君は素早く私の手の平に魔法陣を構築した。手のひらをこちらに向けて見ると、緑色に若干輝いていた魔法陣が徐々に輝きを失い見えなくなっていく。途端に胸が苦しくなってきた。
「胸が……なにを、したの? 樋口君……」
だんだんと呼吸が荒くなっていき、あまりの苦しさに胸のあたりのワイシャツを両手で掴んで地面に蹲るしかなかった。
「今できる、最善の策」
短くそう答えると、樋口君は指先から腕を夜空に真っ直ぐ伸ばすと、樋口君の手から何かが上空に飛び出したかと思ったら、次の瞬間には上空で何かが炸裂して緑色の雲のようなものが発生した。
「最初は苦しいだろうけど、そのうち苦しさはとれて楽になるから」
「私は……何をしたのかを訊いたんだけどなぁ」
「まあ、生きていたら知ることができるんじゃない? 生きていたら、ね」
樋口君はこちらを見ることなく前を向いている。だけど声色は普段のものとそう変わらないように感じる。
右手が突然熱湯に突っ込まれたように熱く、痛く、熱くなる。
「うっ、ううううう」
あまりにも突然に右手から全身にと熱さと痛みが広がり、私は地面で丸くなって唸り声を上げて苦痛を耐えるしかなかった。
頬を草の絨毯に擦りつけながら見上げると、樋口君は一歩二歩と前に進んでいき、私から離れていく。
樋口君を呼び止めようとした途端、視界一面が緑色のフィルターを掛けたようになった――違う。手を目の前にかざしてもフィルターを掛けたようにならず、手の向こう側に半透明な緑色の壁がある感じだ。そう、これはまるでマジックシールド。
マジックシールドが発生したら樋口君はこちらをチラッと見ると、右手を緑色の壁にかざして正面から左側に動かすと緑色の壁は消え去った。途端、樋口君はトップスピードで駆け出し、暗がりの中へと姿を消した。
バッジュ、バッジュ。
私を包む球体状のマジックシールドに赤く輝くものが高速で当たり、音と閃光を発生させた。しかし、それはすぐに収まり、月下に静けさが戻っていく。




