29
目を開ける前から全身に激痛は駆け巡っていた。相変わらず手足を拘束されて身動きが取れない状況で、激痛の苦しみでのた打ち回りたいのに、それができないというだけで苦しさが増す。
「……まだ、生きてる」
目を開くと、涙で歪んだ視界には何重にも重なり合う緑色の電灯が映りこむ。
これが魔力の暴走によって引き起こされているのは今の私には分かる。それでも、この二ヶ月間の魔力制御訓練の成果はなく、なんとか魔力を制御しようといてみるけど、あまりに噴出する魔力が大きすぎて、私の技量では制御は不可能だった。
「くっ……自分の魔力なのに、どうして……」
溢れ出す自分の魔力のオーラを見ていると、どうしようもなく無力感を感じてしまう。
万事休す。魔力が制御できないし、手足を拘束する拘束具は外れることはないだろう。
「でも……まあ、これが外れたからって、魔力が制御できないと、意味はないか」
どんなに頑張ったところで、どうにもならない事はあるんだ。
「……もう、いいや。もう、頑張りたくない……」
そう諦めの言葉を口にした途端、不思議と全身の痛みが引いてくるような感じがする。
全身の激痛が引いていくのと反比例するかのように意識は朦朧としてきて、次第に眠気が強くなってくる。
「なんか……まずいのかな、これ。眠くなってきた」
冬山ではないから凍死はしないだろうけど、たぶん魔力をいっぱい垂れ流しているから体力がなくなっての衰弱死っていうところかな。なに考えているのだろう、私。
思わず笑いがこみ上げてきたけれど、笑い声を上げる体力はもうなかった。
ガチャ、ガチャ。
私がかなり窮地に陥ったその時、樋口君が体を起こした。
起きた樋口君の表情は虚ろそのもので、目は半分閉じていて生気もあまり感じられず、無表情な人形みたい。そんな感じの樋口君は周りを見回すと、後ろ手に拘束された両手を合わせる。すると、樋口君を拘束していた黒い手錠は錠が開いた状態で手首から落ちる。
拘束から解かれた樋口君は表情をそのままに私の傍らに立つ。
「美咲さん、これからも能力者として生きていたい? 答えによっては、僕は君を見捨てる事もやむなしだと考えている。で、生きたい?」
怖いほどに無表情な樋口君は、淡々とした口調でそう問いかけてくる。私にはその質問の意味は分からないけれど、その問いに答えられる答えは今の私には一つしかなかった。
「生きたいに、決まっているでしょ……だって、浩市くんがこんな私でもいいって言ってくれたんだから……だから、私は生きたい」
私がそう答えると、樋口君は弱弱しく微笑んだ。
「だよね、生きたいよね。何を言っちゃってるんだろ、僕は」
そう言うと樋口君は気合を入れるように両頬を叩いた。
「美咲さん、これから君の魔力を魔法によって一時的に封印する。本当は魔力制御用具がれば楽だけど」
樋口君の発言で気が付けば、私の手首にあった腕輪が無くなっている。
「それじゃ、始めるよ」
樋口君が両手を私のお腹の上に置いたその瞬間、樋口君の体は何かに弾き飛ばされるように後方に跳ねた。すると樋口君は、顔を顰めて自分の両手を見つめる。
それでも樋口君は再び私のお腹に手を置いたけれど、結果は同じだった。
「どうして、魔力の出力が上がらない」
「それは……ょく抑制剤を打たれた……から」
私の言葉を聞くと、樋口君はさらに顰め面になる。
「なんでバレ――いや、今はそんな事どうでもいい。問題はどう魔力を抑えるかだ」
樋口君は指で素早く私のお腹をなぞると、手の平をなぞったところに押し当てる。すると、私から溢れ出す魔力のオーラが順調にその量を減らしていく。
しかし、順調に封印できるかと思いきや、樋口君は苦しそうな表情に変わっていく。
「どうする、どうする」
そう小さく呟く樋口君は私の足下の方を見つめ、表情をそのままに眉をひそめる。
順調に溢れ出す魔力のオーラを抑えつつあったけれど、それも半分くらいまで減らしたところで、溢れ出す魔力のオーラは減らなくなっている。
「魔力の移動……いや、独りで……いや、今の状況じゃ、やるしか――でも、想定してした方法では時間が掛かりすぎる――仕方ない、乱暴だけど」
そこで樋口君は小さく溜息をついてから弱弱しく不安そうな表情で、私の顔を見つめる。
「先に謝っておく、ごめん。説明は後でするから」
私には何の事やら分からなかったから、樋口君に説明を求めようとした。でも瞬間には、お腹の上の樋口君の手が動いたと思ったら、金縛りになったように声が出せなくなり、体全身も何かに押さえつけられているかのように動かせなかった。
先に謝っておく、って何よ。これは樋口君の仕業なの? ちゃんと説明してよ。
樋口君は完全に身動きできない私の身体を確認すると、手足の拘束の鎖部分を赤いオーラに包まれた手刀で切断し、私の体に付けられた観測装置の白い丸い物を素早く取り外す。そして私の傍らに立つと、いきなり私の口を覆った――
誰かの顔をこんなにも間近で見たのはいつ以来だろう――っていうか、こんな事をされているのに意外と冷静だな、私。疲れきっちゃって怒る気力がないんだけど、なんだろう、こんなに苦しそうな表情までして樋口君は何をしようとしているのだろう? それにしても、これはキスというより人工呼吸といった感じだな。だけど、浩市くんとキスした時はあんなにドキドキしたのに、今は何とも思わないんだなぁ。
樋口君は私の口を自分の口で覆うと、そのまま目を私のお腹のほうに向ける。そして、私のお腹を指でなぞると、手の平でなぞった部分を強めに押し込んだ。その瞬間、樋口君の顔から首にかけて指紋みたいな模様が浮かび上がる。
【さてと、これで大丈夫なはず。でも問題は――】
えっ、何この声? この頭の中で響いてるのは、樋口君の声みたいだ。
私は頭の中に響く自分のものではない声に戸惑っている最中、私から溢れ出す魔力のオーラは白く半透明なものに変わり、それに伴い全身の痛みが引いていき、次第に溢れ出すオーラは減っていく。だけどその反面、樋口君の身体からは大量の緑色のオーラが溢れ出している。
どういう事なの? なんで樋口君の身体からオーラが溢れ出しているの。
そこで樋口君は私の口から自分の口を離すと、再び私のお腹を指でなぞり、手の平でその部分を押し当てた。すると、私から溢れ出していたオーラはぴったりと止まった。
「これでいいはず……美咲さん、もう……よ」
そう言うと樋口君は力なくしゃがみ込んでしまい、私の視界から消えてしまった。だけど、緑色のオーラはすごい勢いで溢れ出し、それは天井を突き抜けて天まで届きそうなくらいに激しく止まりない。
「樋口君、大丈夫?」
重たすぎる身体を起こして、私の寝かされていた手術台のようなものの上から台の下を覗きこむ。すると樋口君は自分の体を抱え込むように蹲っていた。それでも私とは違い、溢れ出すオーラは確実にその量を減らしていく。
「お待たせ、美咲さん。どう、体の調子は?」
樋口君は溢れ出していたオーラを、おそらく三十秒も掛からずに完全に止めると、台に手をついて立ち上がる。
どうしてそんな平気な顔がしていられるのだろう。たぶん今の樋口君の行動は、何かの方法で私の魔力を暴走させるものを樋口君が引き受けてくれたんだと思うけど、だとしたら樋口君も魔力が暴走する苦しみを味わったはずなのに、どうして平然としていられるの? これが――あれ? 世界が歪んでる……気持ち悪い。
「すごく体が重たいし、視界が揺れてる」
まるで荒波の船の中にいるみたいで、思わず両手で口を押さえるくらい気持ちが悪い。
「それでも立てる? 急いでここから離れないと」
樋口君の言う事も分かるけれど、台から足を垂らしただけでも結構きついのに、手を出して急かさせないでほしい。
台から降りるとひんやりとした床に足が着く。だけど脚に力がまったく入らず、よろめいてしまい樋口君に抱きつく形になってしまった。
「だいじょおぶ、みさきさん」
「……ダメみたい」
いくら全身の力を入れようとしても全然入らず、今も健祐君に支えてもらわないと立っていられない。
「――そう。それじゃ、おんぶしよう。美咲さんは裸足で危ないし、なりより、そのほうが楽そうだから」
樋口君は私の腕を掴み、体を反転させてそのまま中腰になり、私の腕を自分の胸の前で組ませると、両手を私の太ももにまわして私を背負った。
樋口君に背負われて改めて見るこの部屋は、広さは教室の半分もないくらいで、中央に私の寝かされていた腰の高さぐらいの台があって、その横にはノートパソコンが載った大きめのトランクぐらいの装置が置いてある。そして、私が寝ていた足下には三脚の上にカメラが設置されていて、そのカメラからはケーブルが延びていて、さっきのノートパソコンに繋がっていた。
「なんで、カメラが?」
「記録に残すためでしょ。一応、そのカメラは壊したけれど、たぶん他にもあると思っていいよ」
当然ながら小声でそう言いながら樋口君は、この部屋唯一の出入り口である扉に手を当てている。
「なら、こうして私達が逃げようとしてる事も筒抜けなの」
私は樋口君の耳元で囁くように訊いた。
「たぶんね。もしかしたら扉の向こう側に奴らがもう身構えているかもしれない」
「その時はどうするの」
「その時は――とりあえず抵抗はするけど勝ち目はないだろうね。だから祈って、扉の向こうに誰もいない事を」
『祈って』と言われて祈ったところで状況は変わらないのだろうけど、今の私には祈ることぐらいしかできないのであった。
樋口君は扉をゆっくりと音をさせないように開いていき、扉が半分開いたところで手を扉の向こう側に出すと、「よし」と呟くと一気に扉を開いて部屋から出る。
部屋から出るとそこには人の気配はなく、左右に明かりひとつない通路が伸びている。
私は誰もいなかったことに少し安心した。だけど、これからこの暗闇の中を進んで行くことになるかと思うと、正直怖い。しかも、樋口君が部屋の扉を閉めてしまうと、部屋の明かりが閉ざされて本当に真っ暗になってしまった。
目の前の樋口君も見えやしない。
「なにか、音が聞える」
どこからか何かが駆動しているような、ブーンという音が通路に響いている。
「発電機かな。ここ廃墟っぽいし、電気が来てないみたいだからね」
さっき部屋から出るときに通路の様子が見えたが、壁や床がボロボロで長年にわたり手入れはされていない事は容易に推察できる。
「美咲さん、どっちに行きたい?」
そんな事を私に聞いて、どうするんだろう。
「樋口君にまかせるよ」
「任されてもなぁ。んじゃ、涼しい空気が流れてくる方に向かいます」
樋口君は真っ暗な通路をゆっくりと進み始める。
真っ暗な空間では視力というものが全然役に立たない。そんな中で樋口君は壁にぶつかる事なく進んでいくのだから本当にすごいと思う。私には埃っぽい匂いが鼻につくくらいだし、スニーカーと床が擦れる音くらいしか判らないというのに。たぶん、これが準魔法師になる人の実力なのだろう。
「ねぇ、今喋っても大丈夫?」
私は小声でそう訊いた。
「いいけど、なに?」
「こんなに真っ暗なのに、樋口君には見えているの?」
「視界は真っ暗。でも、周囲の様子なら魔力を使った空間認識で、ある程度は把握できるから、こんな視界が利かないところでも進んでいける」
「なんかイルカみたい」
「イルカ? それを言うならコウモリでしょ」
まあ、イルカでもコウモリだろうと、どっちでも構わないのだけど。いったい樋口君には、この真っ暗な空間はどんな風に捉えられているのだろう?
「それって、目で見るのとどう違うの?」
「感じるというか、簡単に言うと、視界で見えないところを感じとる、という感じかな。例えば、魔力圏内ならロングスカートの中のパンツも認識できる感じなんだけど、そうだな、魔力圏内をスキャンする感じかな。この空間認識術を覚えたての頃は情報量の多さで気持ちが悪くなったよ」
「それじゃ、今の私の格好も……」
そう口に出して言ってしまった瞬間、急に羞恥心が働きはじめてしまう。
「でも、そこまで感度を良くするにはある程度、周囲の魔力密度を高める必要があるから現状では使えない。それに、自分の事も美咲さんと同じようにスキャンしているから、主観を見失ってしまって混乱する可能性があるし、動きながら使うものでもないんだよね。だから、今はそれの簡易版のコウモリ方式。魔力の波動を飛ばして壁とかに当たって跳ね返ってきた波動を感じ取っている感じかな。簡易版だから、脳内で構築される空間認識のイメージは劣るけど、どこに壁や床、段差や障害物があるのかは分かるくらいかな。だから、もちろん美咲さんも認識しているけど、それはぼんやりとした影みたいな感じ」
樋口君がそう言い終わると、暗闇の中に静寂が戻る。
この暗闇の中を樋口君は淡々と歩みを進めていく。しかし、私はこの暗闇と静寂に包まれた中にいると、樋口君に密着していてもどこか独りぼっちのような気がして心細く、不安でどうしようもなく怖かった。
ダメだ、この静まり返った暗闇にいると気がおかしくなりそう。
「ねえ、樋口君、何かお喋りしない?」
「あのさ、少し黙っててくれる。必要な事は説明するけど、それ以外の無駄なお喋りに付き合っている暇はない」
樋口君は冷淡な口調のなかに苛立ちを含めているようだった。
「……なによ、さっきまで私よりも喋っていたのは、どこの誰よ。いいじゃん、少しくらい話し相手になるくらい」
あまりに冷たい言い方をされて、私はそう言ってしまう。
「誰のせいでこんな目に遭っていると思ってるんだ。お喋りしていたら集中できないのだから、それくらい分かってよ。生きて帰りたいなら少しは協力してよ」
そりゃ、私が樋口君を巻き込んじゃったけどさ、でも、こんな事になったのは私のせいじゃない。それなのに、まるで私が全部悪いような言い方しなくていいでしょ。
「急にそんなこと言わなくてもいいでしょ、バカ」
樋口君の態度の急変や酷い言い様にショックを受けなかったといえば嘘になる。だけど、溢れそうになる涙を我慢する。なんで我慢したかといえば、なんかココで泣いたら負けのような気がしたからなんだけど、本当に私という奴は変な意地を張る。
それから少しの間、私と樋口君の間には会話がなかった。
淡々と暗闇の中を進んでいく樋口君は、時々止まったり、方向を転換したり、ゆっくりと何かを跨いだりしていく。そんな樋口君の背中で摑まっている事しかできない私は、目を閉じて樋口君の一挙一動を感じる事くらいしかできなかった。
突然何の前触れもなく、私の腕に冷たいものが落ちてきた。その冷たいものを触ってみると、どうやら水滴にようだった。その冷たい水滴は次々と腕に落ちてくる。しかし、不思議なことに落ちてくるのは肘から下の腕だけで、肘から上には落ちてこなかった。
「ごめん、美咲さん」
樋口君はいきなり弱弱しく言うと、立ち止まってしまう。
「なによ、いきなり『ごめん』って」
「もう精神的に限界で涙が止まらないんだ。元から余裕はなかったけど、でも、これからの事を考えちゃうと余計に怖くなって、次の一歩が踏み出せなくなりそうなんだ。このまま隠れて助けが来るのを待ちたくなる」
今にも嗚咽に変わりそうな程に弱々しい声で喋り続けながら、再び樋口君は歩き始める。
「でも助けは来ないかもしれない。だから、自分で何とかしないとって思ったのに、心が折れそう。今の僕に何ができるって言うんだ。魔力もろくに出力を上げられない、体力も限界に近いっていうのに、これからどうするんだよ。もしも、これから上手く外に出れたとしても待ち伏せされていたら、絶対に逃げ切れない」
悲観的なことを口に出しながらも前に進まなければならない、樋口君。そんな彼の涙は、私と同じく――いや、それ以上に不安や恐怖を感じているからなのかもしれない。まだ何も知らない私とは違い、準魔法師でこういう場面での対処法なんかを知っているはずの樋口君だからこそ、それだけリアルな危機感を懐いているのではないだろうか。
そして、再び樋口君の足が止まり、シャツの袖で何かをこする音をさせた。
こういう時に何を言ったら、この私と同い年の男の子を励ます事ができるのだろう。
「大丈夫だよ。なんとかなるから、絶対になんとかなるから……お願いだから諦めないで。何もできない私が言えた事ではないのだろうけど……私は生きたい。これからも今と同じ様な辛いことがあるかもしれないけど、それでも私は生きていたいんだ。生きて、好きな人や大切な人達と同じ時間を過ごしたい。ここで終わりになんかしたくないんだ。だからお願い、私のために頑張ってください。今、頼れるのは樋口君しかいないから……お願いします」
言い終わると自然と涙が溢れてきた。
励ませなかった、いや励ますどころか、私の一方的な願望を樋口君に押し付けてしまった。もしかしたら、樋口君に更なる追い討ちをかけてしまったかもしれない。樋口君はもうここから一歩も進めないかもしれない。そうしたら、私たちの人生はそこで終わる。終わりにしたくなくても、終わる。だから、ここは樋口君に頑張ってもらうしかないのに。
同時に心の中では、こう思ってしまう自分に対して許せない気持ちもあった。
「……ごめん、今のは聞かなかったことにして」
そう言ったところで、今の自分勝手な発言が取り消せるわけがない。
「それでも樋口君に頑張ってほしい気持ちは変わらない。卑怯だけど、今の私の命を守れるとしたら、樋口健祐君しかいないのだから」
「うん、卑怯だね。ずるいよ」
樋口君の弱弱しい声が返ってくる。でも弱弱しい声はここまでで、次の瞬間には少し張った声になる。
「でも、僕は諦めたつもりはないよ。いくら怖くて泣いたとしても、弱音を吐いたとしても、僕は生きる事を諦めない。諦めたくないんだ!」
樋口君の発言は自分自身に言い聞かせたようにも、私に言ったようにも聞えた。
再び歩き始めた樋口君は曲がり角を曲がったところで再び足を止めた。
「美咲さん、顔上げてみ」
私は顔を上げて目を開けると、柔らかい薄明かりに照らされた樋口君の横顔があった。
「あそこの窓から明かりが差し込んでいる」
辺りを確認すると、私達から四、五メートル離れたところに腰の高さから天井に届きそうな大きな一枚ガラスの窓があった。
「何の明かり?」
「月明かりかもしれないし、人工物の明かりかもしれない。とりあえず窓に近づいてみる」
さらに辺りを見回すと、その窓から薄明かりに照らされて反対側の壁に掛かるプレートの文字が見える。
「製品検査室?」
ついプレートの文字を声に出して読んでしまった。
「ここ、元々は何かの工場だったのかもね」
そう言いつつ樋口君は窓側の壁伝いにゆっくりと窓に近づいていく。
薄明かりにぼんやりと浮かび上がる樋口君の表情は真剣そのものなのに、だけど目は潤んでいて、それだけ今の状況が危機的状況なのだと感じてしまう。
樋口君は窓際まで近づくと「怖くない、怖くない」と小声で呟きながらも、体を壁に隠しながらゆっくりと顔を窓に近づけて外の様子を窺う。
「誰も――いない。いないのはいいけど、ここはどうやら二階だったみたい」
樋口君はそう言うといったん窓から少し距離を取ると、その場で片膝を着いた。
「美咲さんちょっと降りててくれる。少し休憩したい」
「了解。降りますよ、っと」
私は樋口君の肩に摑まりながらゆっくりと足を地面に着け、脚に力を入れ……られずに、仰向けに倒れてしまった。幸いにして重心が低かったおかげで床との距離は短く済み、たぶん怪我はしていない。背中は冷たいけど。
「いたた、全然力が入らないや」
「大丈夫、美咲さん? ――とりあえず、壁に寄り掛かって」
樋口君は振り返り私を見ると、少しの間を置いてから私の上半身を起こした。
「樋口君、今エッチな目で私のこと見たでしょ」
私は抱えられる形で壁に寄り掛からせてもらった。
「そんな余裕はないよ。たしかに、目のやり場には困ったけどね」
樋口君は立ち上がると、それが当たり前の行動のようにシャツのボタンを上から外していく。そしてボタンを全部外し終えるとシャツを脱いで、黒い半袖の下着姿になると男性らしい腕があらわになった。
「でもまあ、それだけ軽口がたたけるなら、まだまだ元気だね。じゃあ、汚れたシャツで悪いけどコレを着てくれるかな、僕のために」
樋口君は若干柔らかい表情になって、さっきまで着ていたシャツを渡してきた。
「うん。ありがと」
私はシャツを受け取ると、壁に寄り掛かったまま袖を通した。
シャツを着おえた私を見てから樋口君は、私のすぐ側に寄り掛かるとそのまま腰を下ろした。顔を上に向けて壁にもたれ掛かる樋口君は、窓から離れているために表情は読み取れないが、目を閉じて少し荒い息を整えようとしているのは若干の明かりのなかでも見て取れた。
こんな時に私は、樋口君になんて声を掛けてあげられるのだろう。頭の中で言葉を探してみても良い言葉は見つからない。こんなにも顔を腫らしながらも私を見捨てないでいてくれる樋口君に対してなのに、言葉は見つからない。
「ありがとうね、美咲さん。『生きたい』って、言ってくれて」
いきなり樋口君はそんな事を言った。
「さっきのは励まそうとしたんだけど、上手くいかなかったよね」
「ううん、そんな事はないよ。たぶん嗚呼言ってくれなかったら、僕の心は完全に折れちゃってたと思う。正直言って、今もすごく怖いんだ。吐きそうになるくらい怖いんだ。だから嗚呼言ってくれなかったら きっと僕は前に進む理由を見失っていたと思う。恐怖心に負けちゃっていたと思う。僕は自分自身にまったく自信がないけれど、でも美咲さんの言葉で頑張る理由ができたから、僕は僕なりに最善を尽くすよ」
今の樋口君の言葉で、私の中にある『能力者は完璧な人達』というフィルターは完全に壊れた。それと同時に、ムカつきながらも樋口君に感じていた能力者として優秀だという印象は崩れて、急に能力者だと知るニ、三日前の樋口君に戻った――いや、それ以上に目の前の彼がとても弱い人間だと思ってしまった。私と同じ様に弱い人間だと。もちろん、この状況で弱気にならないのは無理だろう。それでも初めて知る友達の弱さを目の当たりにして、今回の件で樋口君に対して準魔法師という理由だけで高望みしていた事に、そして今でもなお樋口君なら何とかしてくれると思っている自分に対して、愚かだったと思うしかない。
「頼むよ、準魔法師さん」
私はできるだけ茶目っ気たっぷりに言った。
どんなに愚かだと思おうと、何もできない私には頼って期待するしかない。こんなに弱いのに、それでも前に進むことを諦めなかった、私よりもずっと強い樋口君を。




