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樋口家は築何十年かという母屋に比較的新しい感じの増築部分からなる二階建ての一軒家だった。今現在も兼業農家という事もあってか広い庭には、農機具が仕舞ってある納屋があったり、何台も駐車できそうな駐車スペースには黒塗りの車が止まっていた。
「違うよ、あの高級車はうちの車じゃないよ。あれはお客さんのだから。うちのはその奥の軽トラや白い車だよ」
私が黒塗りの車の事を口にすると樋口君はそう教えてくれた。
あの小さな神社から歩いて十分くらいの所に樋口家はあった。その樋口家へ向かう道すがら、お姉ちゃんと連絡が取れて事情を話すと、そうしたら父も母も急用で出掛けているからお姉ちゃんが私の着替えを持って樋口家に行くという事になった。
「という訳で美咲ちゃんを連れてきました。姉ちゃん、後は任せてもいいよね」
「うん、いいよ。さっき里香から電話があったからね、事情は把握してるよ」
「んじゃ、よろしく」
という姉と弟の会話をして樋口君はさっさと家の中に消えちゃった。
「ごめんね、離れの裏口で。今日は色々とお客さんが来るから」
そう言う智子さんは高校の制服姿にエプロンを掛け、腕にはバスタオルが二枚掛けられている。
「あ、いえ。お邪魔します」
「いっらしゃい。さてと、一枚バスタオル敷くから、その上に座って靴下脱いでくれる」
言われた通りにバスタオルの上にお尻を載せて、ビチャビチャに濡れている靴と靴下を脱ぐと、さっきまで靴下と触れていた部分がスースーする。
「この小さなタオルで足拭いてくれる」
「はい、すいません」
私はタオルを受け取り、濡れた足を拭いた。
「足拭けたらバスタオルの上に立って、こっち向いて」
バスタオルの上で立ち上がり回れ右をすると、いきなり何かを被されて髪の毛をクシャクシャとされる。すぐにそれが頭を拭くためのバスタオルだと分かった。
「大変だったね。変な人に追いかけられたんだって、怖かったでしょ」
私の頭を拭きながら智子さんは優しい声で心配してくれる。
「しかも、いきなりの土砂降りでこんなにビチョビチョになっちゃって、私だったら心細くて泣いちゃうね。その点、私とは違って美咲ちゃんは強いよ」
「そんな事ないです。私は、ただ……ただ必死で…………逃げて……」
なぜか自然と涙が溢れてきて、それに伴って言葉が上手く出てこなくなってしまう。
「大丈夫、大丈夫だから。もう怖いことはないから、安心していいんだよ」
智子さんはそっと私を引き寄せると顔を近づけ、ホッと優しさに包まれそうな微笑みを向けてきた。その瞬間、私は心の底から安心しきって、そして、もうどうしようもないくらい目からは大粒の涙が止めどなく頬をつたい流れ落ちていく。
「よしよし。泣いちゃえ、泣いちゃえ。こういう時は女の子なら誰でも泣いてもいいんだから、我慢しなくていいんだよ」
むせび泣く私を智子さんはそっと抱きしめてくれた。そのまま私が落ち着きを取り戻すまで、そうやって暖かく抱きしめていていくれた。そうやって泣かせてくれたおかげで、あの追いかけられた恐怖心とかの心の重荷が少しだけ軽くなった気がした。
「泣いて、少しはスッキリした?」
私が落ち着きを取り戻すと、恵さんは脱衣所まで案内してくれた。
「……はい。でも、エプロンやブラウス汚しちゃって、すみません」
「ああ、これね。こんなの洗濯しちゃえばいいから、気にする事はないよ。それよりもさ、着替えはある? 無かったら用意するけど」
「たぶん濡れたのは訓練着だけだと思うので、その下の物は大丈夫だと思います」
一応、このスポーツバッグは防水性があるから被害は少ないはず。
スポーツバッグのチャックを開いて中身を確認すると、さっき見たとおり訓練着は濡れていた。しかし、幸いにしてタブレットPCやノート、予備の着替え用下着などは無事だった。
「下着は無事だね。そんじゃあ、私のワンピースでも貸してあげましょう。ああ、濡れた洋服はそこのカゴに入れといて。ワンピース取ってくるついでにビニール袋も持ってくるから、濡れてる物はそれに入れて帰ればいいよね」
「お手数掛け、すみません。ありがとうございます」
「いいのよ。君は親友の妹ちゃんだし、それに健祐の友人だから。それじゃ、ワンピースとか取ってきますか。じゃあ美咲ちゃん、結構体が冷えちゃってるから、お湯に浸かってちゃんと体温めてね。では、ごゆっくり」
智子さんは微笑んでそう言って脱衣所を出ると、引き戸の扉を閉めた。
こうやって友達の家のお風呂を借りるなんて、なんだか少し変な感じがする。自分家以外のお風呂に入った事があるのなんて、父や母の実家に、幼馴染の美佳子ん家のお風呂くらいだもん。あとは旅館やホテルのお風呂か。しかも、男友達の家のお風呂だなんて初めての経験だな。
そんな事を考えつつ浴室に続く扉を開く。
樋口家の浴室は、内装は違っていてもあんまり家の浴槽と変わらなかった。それは、ところどころに黒カビが発生していたり、シャンプーやリンスが二種類以上あるところなんてそっくり。
湯船は一応お湯を入れ替えてくれたと智子さんが言っていた。だけど、これは家のとは違い自動で掃除とかやってくれる最新のタイプだからスイッチ一つでいいらしい。毎日掃除しなくてもいいというのは羨ましく思う。
お湯で身体を洗い流して湯船に入ると、ゆっくりと胸元までお湯に沈めていく。お湯の温度は四十一度に設定されている。普段なら熱くもない温度だけど、雨に打たれて冷えた身体には少し熱く感じる。しかし、しばらく湯船に浸かっているうちに身体は温まってきて熱さは感じなくなった。
こうやって温かい湯船に浸かっていると、あの変な人に追いかけられた事や樋口君への疑念とかは、冷えた身体が温まるにつれてどうでもよく思えてくる(というか、何にも考えたくない気分だったりする)。
気持ちいいのに面倒くさい事は考えたくない。
そうやって私が湯船に浸かって十分ぐらいして、突然ノック音とともに脱衣所の扉が開いて誰かが入ってきた。
「みさきちぃ」
樋口君の声だった。
「台の上にバスタオルとワンピース、それにビニール袋置いておくからね。それとお湯が温かったら、オレンジ色の追い炊きのスイッチ押してね」
「うん、ありがとう。湯加減は問題ないよ」
身を屈めて湯船に隠れるようにして、曇りガラス一枚挿んだ樋口君にお礼を言う。樋口君からは私の事は見えないのだろうけど、やっぱり素っ裸の状態ではいくら親しい友達だといっても、男の子に対しては気を使わないといけない。
「それはよかった」
そう言うと樋口君はさっさと脱衣所から出ていった。
それから十分くらい湯船に浸かり、体が十分温まるとお風呂から上がった。
濡れている髪の毛や体を台の上のバスタオルで拭き終えると、下着は自分のものを身に着け、その上に智子さんの鮮やかな緑色をしたワンピースを着る。そうして全身鏡の前に立つと、やっぱり智子さんとは体格差があるのだと実感する。全身鏡に映る私の姿は裾が脹脛を隠すくらいまであって、まるでネグリジェを着ているように見える。
「どうすれば身長伸びるんだろう……」
まあ、そんな事も思いつつ、持ってきてもらったビニール袋に濡れた洋服や下着を詰め込んでスポーツバッグに入れた。
スポーツバッグを持って脱衣所から出ると、少し離れた場所で樋口君が携帯電話の画面を見つめていた。脱衣所の扉を閉めるとその音で私に気づいたくらい集中して見ていた。
「ああ、美咲さん出たんだ。どお、体は温まった?」
「おかげ様でしっかりと温まらせてもらいました」
「それは良かった。それじゃ、悪いんだけど里香さんが来るまで僕の部屋で待っててもらえるかな。嫌なら言ってくれいいよ、急いで姉ちゃんの部屋を片付けちゃうからさ」
「そこまで気を使わないでいいよ。こんなに良くしてもらって、これ以上は迷惑を掛けられないよ。それに私は……樋口君のことを信じているからね」
信じているというのは嘘ではないけれど、この状況で樋口君の部屋に行く意味を色々考えてしまって落ち着かない気分になる。
「今、みさきちさぁ、僕に変な事されないかどうか考えたでしょ」
図星です。
「まあ、それは女の子なら当然の警戒感か。だけど、これだけは言わせて――僕はキスもセックスも初めては好きな人とがいい。だから美咲さんを無理矢理どうこうする気はないよ」
いきなり樋口君がそんな事を言うものだから、意表をつかれてしまい思わず声を出して笑ってしまった。しかも、照れもせずにいつもの表情なのも可笑しさを倍増させる。
「ははははは。はぁ~、だめだ、可笑しすぎる。普通、そう思ったとしても男の子がそんな事言っちゃダメだよ。でもまあ、私を安心させようとしたその心意気は買っておくね」
ようやくそこで樋口君は伏し目がちになり、ちょっとだけ顔を私から背ける。その時、耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「さてと、表情を変えずにそんな恥ずかしい事をいっちゃった樋口君には、籠宮美咲があなたの部屋に行っちゃう券、がプレゼントされちゃいます」
「うわっ、そのプレゼントまったく嬉しくないんですけど。本当は姉ちゃんの部屋に居てもらおうと思っていたのにさ、なんで僕の部屋に案内することになってるんだろう」
「さあ、どうしてだろうねぇ」
やっぱり男の子も友達とはいえ異性に自分の部屋を見られるのには抵抗があるのかな?
「まあ、いいじゃない、そんな事を気にするだけ無駄だよ。だから、さっさと樋口君の部屋に案内したまえ」
「態度が横柄ですね、みさきち。そんな態度を彼氏さんの前でとったら嫌われちゃうぞ」
「ご心配なく。浩市くんはこんな事じゃ、私の事を嫌いにならないもんね」
「彼氏さんの事を信頼しているんだね――このリア充め、爆発しちゃえっ」
もちろん信頼していますとも。だって、浩市くんは私のことを世界で一番好きだって言ってくれたのだから。それに、私にとって浩市くんは心の底から大好きだと思える人だもん、信頼していないなんて有り得ない。
樋口君の部屋は、増築部分――離れの二階にあって、隣に智子さんの部屋という私の家と似た構造になっていた。ただし私達姉妹の部屋とは違い、中では繋がってはいなくて、ちゃんと壁で二つの部屋は隔たれていた。そして部屋の中はといえば、かなり綺麗に片付いていて、私の部屋よりも整理整頓が出来ている。勉強机の上にはノートパソコンと電気スタンドだけだし、本棚に並ぶ本もちゃんと見やすく取り易くなっていた。そのほかにタンスにベッドがあったけれど、それらも私の部屋より小奇麗だった。
「いつもこんなに片付いているの?」
「昨日、ちょっとだけ整理整頓やったから、いつもよりかは片付いているかな」
私の質問に樋口君は、クローゼットから小さな折り畳みテーブルと座布団二枚を取り出しながら答えた。
「どうぞ、座って」
折り畳みテーブルを広げ、座布団を向き合うように対称に敷いてくれた。
私は扉に近いほうの座布団に腰を下ろす。
「飲み物持ってくるけど、温かいのと冷たいの、どっちがいい?」
「冷たいのだとお腹冷えちゃいそうだし、温かいほうでお願いします」
「あっちにお菓子もあるし、お茶でもいい?」
私が頷くと樋口君は部屋を出ていった。
部屋に独りになった私は立ち上がり、部屋の中を監察する。
本棚には漫画や小説、野球関係、それに美佳子の部屋で見たことのあるような魔法の関連本が種類・タイトル別に綺麗にならんでいる。本棚の横のタンスは五段の引き出しで、そのタンスの上にはいつも樋口君が背負っているリュックに野球のグローブが置いてある。続いて、エッチな本でもないかと思いベッドの下を覗いてみたけれど何もなかった、さすがに机の中やクローゼットの中を勝手に見るのは気が咎めたため開けるのはやめておいた。
改めて見回したところで小奇麗な部屋に変わりはないけど、ベッドの側の窓に掛かる青いカーテンは半分しか閉まっておらず、雨が降らし続ける灰色の雲がみえた。私はなんとなく外が気になり、ベッドに腰掛けて外を眺める。相変わらず外は雨が降り続いていて、樋口家の庭に駐車している黒塗りの車から降りてくる人も赤い傘を開いていた。
「高そうな車が四台も並んでる。そういえば、家の中がドタバタしてるって言ってたけれど、何かやっているのかな。もしかして本当に邪魔しっちゃてるのかも……でも、今さら帰るとは言い出しにくいよな」
どうして高そうな車ばかりが来ているのだろうという疑問はあるけれど、今はとにかく落ち着けていることに感謝している。あの神社にいた時は感情が高ぶっていて感じなかったけれど、あのまま樋口君と会えていなかったらと考えると、心細さと恐怖心で心が冷たく締め付けられるような感じになる。
「……本当に怖かった」
そう思う。反面、こうも思う、
「樋口君に会えて本当に良かった」
と。
だけど落ち着いて考えてみると、樋口君が恵さんの双子の弟というのは、我ながら変な事を考えていたと思う。恵さんと樋口君は顔が似ているし、恵さんの双子の弟と樋口君の名前は同じだけど、根本的に苗字が違うんだよね。常識的に考えれば恵さんの弟なのだから苗字は同じ雪乃なわけだし、それに恵さんと中井さんの話に出てきた双子の弟と樋口君とでは印象が違う。私の知る、樋口健祐君は物静かで私の話をよく聞いてくれ、だけど木曜日のように喧嘩して怒らせると言葉遣いが容赦なくなるけれど、しかし、自動販売機でジュース買う時なんかは散々迷ったあげく、結局間違えてどうでもいいような物を買っちゃうような、おっちょこちょいさんでもあるのだ。そんな樋口君が、事故現場で冷静沈着に対応したり、恵さん以上に魔法を使いこなす姿は到底想像もできない。だけど……。
「それでも、まだモヤモヤとした疑念というか……なんだろこの感覚」
樋口健祐君と雪乃ケンスケという印象が一致しない二人の存在。
「別人なはずなのに、別人じゃないような気がする」
聞え続ける雨音は弱まることなく、さらに大きく音をさせ始める。
「もういいや……もう何も考えたくない」
心底思う。
なんだろう、急に頭が重たくなってきた。
「ちょっとだけならいいよね」
ベッドに上半身だけ横たえる。
横になると緊張感がなくなっていき全身の力が抜けていって、布団の柔らかさに包まれ、徐々に体温が上がってくる。それがどうしようもなく心地よくて、すぐに眠れててしまいそうだ。
だけど眠っちゃダメ。他人のベッドで勝手に寝ちゃうなんて、女の子としてダメなんだから。だけど、浩市くんのベッドとは違う匂いがするよ……浩市くん以外の男の子のベッドの匂いを嗅ぐなんて初めてだなぁ…………浩市くん、今頃なにをやっているんだろう……私がこうして樋口君のベッドで寝てるって……知ったら、嫉妬してくるかな…………。




