20
『これで何となく分かった気がします。なんで美咲ちゃんの近くにケンスケを』
あの後、恵さんはなんて続けるつもりだったのだろう。
小さな神社の社の軒先を借りて雨宿りをしつつ、そんな事を考えていた。
先程まで勢いよく降っていた大粒の雨は、徐々に小降りになりつつあった。
「さむっ」
六月末だというのに風が吹くと身体を震わすほどに寒く感じる。それは今日が異常に涼しいのではなく、突然勢いよく降り出した雨の中を傘も差さずに走り抜けたおかげで、洋服から下着までビショビショに濡れているからなのだけど。
どうして私が全身ずぶ濡れになって、どこにあるのかも分からない小さな神社で雨宿りをしているかといえば、約一時間前、映画館から出て行くところから想いかえす必要がある。
突如携帯電話の演奏が始まって逃げ出すように魔法協会の建物から飛び出すと、若干の罪悪感と小さくない疑問を懐いて帰路に着く。この時はそんなに雨脚は強くはなかったが、それでも傘を開いた。駅までの道すがら、頭の中は恵さんが喋った最後の言葉の意味を考えるのでいっぱいになった。しかし、いくら考えたところで推測の域を出るはずもなく、心の中にはモヤモヤした気持ちがどんどん溜まっていくのでした。そのモヤモヤをどうにかしたいと思っていた時、お姉ちゃんから貰った映画のチケットの存在を思い出した。考えるのに疲れかかってきていたから丁度いい気分転換になると思い、高校の最寄り駅で電車を降り、繁華街近くの映画館へと直行した。映画の内容は面白かったと思うけれど、映画が終わる頃には友人への疑心は深まっていったのでした。
そうなのです。この時点で初めて、樋口君が恵さんの双子の弟ではないと本格的に疑っている事に気が付いたのです。それは、最後に聞えた恵さんの言葉のせいだと思います。あの言葉のせいで、私の親しい関係にある樋口君のことを連想してしまうのでしだ。
気分転換が目的だったのに、余計にモヤモヤした気持ちが募ってしまった。
そんな答えのでない問題を考えていたせいかもしれない。全身ずぶ濡れになってしまったのは。
あんまり印象が残らなかった映画を観終えて映画館を出ると、空には灰色の雲が低く垂れ込めていたけれど雨は降ってはいなかった。街を歩く人々はほとんど折り畳まれた傘を持って歩いていた。私もそんな繁華街の風景の一部に溶け込めていたと思っていたのだけど、その認識は甘かったとしか言いようがない。考え事をしていたせいで、そうなるまで気づかなかった。突然、何かにぶつかり顔を上げると、そこには中肉中背の中年男性が立っていた。私は軽く頭を下げて謝罪の言葉を述べた。そして立ち去ろうとしたら、突然その中年男性は私の名前を口にしたのだ。見ず知らずの人に名前を呼ばれることは昨日もあったし、最近では珍しい事ではない。だけど、今回の場合は少し違っていた。いつもなら私の名前を口にする場合、大半が何か珍しい物でも見るような笑顔なのだけど、しかし今回の男性の場合は見る見るうちに憎悪の感情が面に出てきた。とっさに何か危ない感じがして走りだそうとしたけれど、その瞬間男性に片方の手首を強く掴まれてしまった。
「放してください!」
私は男性に睨みつけて言った。
そうしたら男性は一瞬驚いたような表情をしたけれど、すぐにそれまで以上に憎悪剥き出しにして、より強く私の手首を握り締める。そして男性は周りの通行人も振り返るような大声で訳の分からない事をぶつけてきた。
「あ、あの時、あの場所でなにがあったのか教えてくれッ! 私は、娘に――璃亜になにがあったのか知りたいだけなんだ。君にはわッ」
「訳の分からないこと言わないで!」
私はその男性の足を思いっきり踏みつける。すると、私の手首を掴んでいる力が弱まったので私はその男性の手を振りほどくと、一瞬で後ろに振り向くと同時に全力で駆け出した――全力で駅とは逆の方向に逃げ出した。
「ま、待ってくれ。私はただ」
人々の間を縫うようにして駆け抜けていると、後ろからそんな叫び声がした。私はその声から全力で逃げた。駆けながら狭い路地に入り、そして大きな通りに出るとまた違う狭い路地へと入っていき、必死に追手を撒こうと駆け抜けた。
そして、十分に追手を撒けたと思って後ろを振り向くと、そこには文字通り誰もいなかった。人っ子一人いなかった。私はもう追いかけられないのだと安心し、走る速度を緩めて立ち止まった。すると途端に目眩に襲われ、膝に手をつき中腰の体勢になってしまう。この時の私の身体は、体内で不足している酸素量肺を補うべく呼吸は早く、その取り込んだ酸素を全身に送るべく心臓はその鼓動を早めていた。そして、しばらく休んで呼吸が整ってくると冷静さを取り戻し、辺りを確認すると私は驚いてしまった。なぜなら、私が立っていたのは全然見覚えのない住宅地のど真ん中だったからだ。しかも、持っていたはずの傘は気が付けばなくなっていた。逃げるのに夢中で落としたのに気がつかなかったのだろうけど、お気に入りの傘だっただけに落ち込む。さらに悪い事は重なって、いきなりバケツをひっくり返したような豪雨が降り始め、私はあっと言う間にずぶ濡れになった。仕方ないので雨宿りできる所を当てもなく探す。大粒の雨が地面を叩く中、五分くらい歩くと小さな神社を見つけ、その神社の軒先で雨脚が弱まるまで雨宿りさせてもらうことにしたのでした。
そして、今に至る。
さてと、どうしようかな。服はびちょびちょだし、携帯電話は電池切れで現在位置は分からない。バッグの中の訓練着とかも濡れちゃっていたし、このまま電車のるのは気が引けるなぁ。あ、そうだ。公衆電話を探せば……あるわけないか。だけどコンビニにはあるかもしれないなぁ。よし、もうすこし雨が弱くなったらコンビニ探してみよう。そして家に電話しよう。
などなどと考えを巡らしていると、ザックザックと玉砂利を踏みつける音がするのに気がついた。音のした方に顔を向けると、顔は傘で隠れて見えず、しかも袖まくりをしたワイシャツに黒ズボンという格好は明らかに男性だった。
嘘でしょ、さっきのおじさんがここまで追いかけてきたっ!?
雨宿りしていたのが社の側面だったおかげで相手からは見えにくいはずだから、まだ私がここいるとは知らないはずだと願って、身を屈めて側面から裏側へと移動する。移動すると壁に背中を張り付かせて、雨音交じりの玉砂利を踏みつける音に耳を澄ませる。同時に何か武器になるものはないかとバッグの中をあさるけれど、この慌てている状況で手に取れた物といえば、昨日買った封を開けていないスポーツドリンクのペットボトルくらいだった。
うーん、何もないよりいいか。もし、こっちに来るようなら、コレを顔に当てて全速力で逃げやる。
ペットボトルを握りしめ、そう覚悟を決める。
だけど気持ちの大半は、こっちに来ないでほしいと願っていた。
しかし、その願いはどこにも届かなかったらしく、ザックザックという玉砂利を踏みつける音はさらに近づいてくる。その音が近づくにつれて恐怖心や不安感で心が押し潰されそうでティーシャツの胸部分を掴まずにはいられなかった。次第に呼吸は荒くなっていき、心臓の鼓動も今のも相手に聞えてしまうのではと思うくらい高鳴ってくる。
徐々にザックザックという足音は大きくなっていき、もう見つかっている事は確定したと思う。さらに足音は大きくなっていき、もう相手との距離は五メートルもなくなっていると感じ、緊張感が最高潮に達する。
しかし、事態は好転した。相手はそこで足を止めると、少しの間そうすると足音をさせて遠ざかって行った。私はその足音が小さくなり、そして完全に聞えなくなるまで緊張を解くことができなかった。
足音が聞えなくなって時間がどれくらい経ったかは判らないけれど、いきなり張り詰めていた糸が切れるようにして私の身体は崩れ落ちて、へたり込む。けれど、そうやって心の中に安堵感が徐々に広がっていった。
ザック、ザッ
まるで注意を払っていなかった方からの音に、私は何にも警戒をすることなく顔を向ける。そこにはさっきと同じ服装の男性が立っていた。その顔もさっきと同じ様に隠れている。
……どうして?
一気に頭の中は混乱に至る。けれど、男性がそこにいる理由は分かった――それは私が一方の側面の方にしか注意を払っていなかった事が原因だった。そうなのだ、私が注意を払っていた方向とは逆の方向から回り込んできただけだったのだ。
ザックザック。
男性は一気に私との距離を詰めてくる。だけど、逃げようとしても立ち上がろうとしても気持ちだけが先走って上手く立ち上がることができない。そうしている間に男性と私との距離はなくなっていき、私が立ち上がった時には、もう男性は三メートルの所にいた。
「やっぱり、そうだ」
そう言うと男性はゆっくりと傘を上げる。
私はもうどうにでもなれという気持ちで、持っていたペットボトルを男性の顔めがけて目一杯の力で投げた。すぐにグシャという音がして、そのあとにペットボトルの落ちる音がした。投げるとすぐに私は、逃げようと脚に力をいれたけれどバランスを崩してしまい、尻餅をついて仰向けに倒れてしまった。
「いっ、痛ぅ。みさきち、いきなり何を……って、なんでこんなところで寝てるの?」
混乱した頭でも友達の声は理解できたらしく、これまで感じていた恐怖心や不安感がその声を聴いた途端、それらが安堵感に変わって何とも言えない安心感が私を包んだ。
「しかも全身ビショ濡れだし、本当にどうしたの」
ゆっくりと目を開くと、そこには鼻を手で押さえながらこちらを窺っている樋口君の顔がった。その表情は驚いているようで、しかも鼻を押さえている手の隙間から鮮やかな赤い血がポタ、ポタと滴り落ちている。
「ごめん……まさか樋口君だとは思わなくて……」
さっきまでの張り詰めていた緊張感はどこにいっちゃって、今は完全に気持ちが緩んじゃって腑抜けた声しか出せなかった。
「まあ眼鏡が無事だったし、それはいいけど。立てる?」
樋口君は鼻を押さえているのとは逆に手を差し出してくれた。
「うん。ありがと」
私が樋口君の手を掴むと、樋口君は片手だけで私を引っ張り起こした。そうされて改めて、樋口君が男の子なんだなぁ、と感じる瞬間だった。
「それで何があったの? そんなにビショビショに濡れちゃって、しかも声を掛けようと思ったら、いきなり中身の入ったペットボトルは飛んでくるはで、それが顔面にヒットして痛いし、鼻血も出ちゃって――――まあ、ペットボトルを投げる瞬間のみさきちの表情で何かあったのは分かるけどさ、ちゃんと説明してくれるよね」
私は頷き、今に至った事情を話す。もちろん恵さん達の話を聞いて樋口君を疑っている事は隠しつつ、変なおじさんに腕を摑まれ追いかけられた事、逃げ切ったと思ったら突然の土砂降りで全身ビショビショになった事、樋口君を変なおじさんだと勘違いしてペットボトルを投げつけてしまった事はちゃんと説明した。
「なるほど、事情は分かったよ。それで、これからどうするつもり?」
どうしようかなぁ。駅までの道は樋口君に訊けばなんとかなるし――でも、この格好のまま電車に乗るのも気が引けるしなぁ。あ、そうだ、樋口君の携帯電話を借りられれば家に連絡取れれば何とかなるかもしれない。
「樋口君、悪いけど携帯電話貸してくれない? 家に連絡取りたいからさ」
「うん、いいけど。はい」
樋口君から携帯電話を借りると、うちの家電に掛けてみたけれど留守番電話に切り替わってしまった。それでも気を取り直して家族の誰かの携帯電話に掛けようと思ったけれど、断念した。だって家族の携帯番号なんて携帯に登録してあるし、普段もあんまり使わないから全然憶えていなかったんだもん。
「はあ……何かにメモっておくんだった。はい、ありがと。携帯返すね」
少し精神的にヘコみつつ樋口君に携帯電話を返す。すると樋口君は携帯電話を受け取るとピッピッピッと音をさせて操作すると、携帯電話を耳に当ててどこかに電話を掛ける。
「――もしもし、姉ちゃん――あのさ、里香さんの携帯番号教えてくれないかな?」
思わず樋口君の見てしまった。すると樋口君はニコッと微笑んでくれた。
「ん、必要な理由はねぇ、美咲ちゃんが連絡を取りたがっているからだよ――うん、目の前に――携帯の電池が切れちゃってるみたい――事情は帰ったらちゃんと話すよ――うん、ありがとうね。あっ、そうだ姉ちゃん、お風呂沸かしといてくれる――違うよ。目の前の友人が全身ビショ濡れだからね。このままにしといたら風邪引いちゃいそうだから――はーい、よろしく」
電話を掛け終わると、樋口君は携帯電話持ってそれを眺める。
「樋口君、今のお話はどういう事なのでしょうか」
私は今の電話の内容について説明を求める。
「家が近所だから、ビショ濡れの友人をこのままにしておくのもどうかと思うし、それに里香さんに連絡が取れたとしても短くても一時間はそのままだよ。風邪引いちゃうかもしれないよ」
「だけどさぁ、いきなりお邪魔して家族の人の迷惑にならない?」
「今日、家の中はドタバタしているけど、まあ大丈夫でしょ。こんな状態の友人にお風呂を貸すくらい。逆にみさきちをこのままにしといた方が叱られちゃうよ」
いくら智子さんとは面識はあるとはいえ男友達の家でお風呂を借りるというのは、大分抵抗があるのだけど。しかし、このまま濡れた格好でいれば樋口君の言うとおり風邪を引いちゃうかもしれない。一応、家族もいるみたいだし変な事はされないよね。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらっちゃおうかな」
なんだかんだ考え、樋口家にお邪魔することにしました。
それはそれで良とするとして、どうも樋口君と話していると、恵さんの弟じゃないかと疑っている事が間違いなのでは、と思えてきてしまう。まあ、そう思えてしまうのは今の樋口君が両方の鼻の穴にティッシュを詰めているせいなのかもしれないけど、もっと大きな理由として樋口君が準魔法師になった姿がまったく想像できないくらい、私からは普通の男の子にしか見えないからなのかもしれない。それでも心のどこかでは樋口君を疑っていたり、友達なら本当の事を言ってほしいと思っていたりする。いや、それもあるけど、どこかでは同じ能力者であってほしいという想いも少なからずあり、もし本当に能力者なら時々感じる得体の知れない寂しさもなくなるのではという自分勝手な思考が働いていたりもするのだけど。まあ、樋口君が秘密にしているかもしれない事を知りたいと思う事も自分勝手ではあるのだけどねぇ。
はあ、こんなにモヤモヤする気持ちになるなら、樋口君に直接訊こうかな。




