未来からの手紙
エヌ氏のもとに最初の手紙がとどいたのは、二十歳の誕生日の朝だった。
白い封筒の差出人の欄には、エヌ氏自身の名前が書いてあった。消印の日付は、十年先だった。
『わたしは、十年後のおまえだ。信じられないだろうが、まあ読め。来週の試験は、三問目が出る。それから、駅前の喫茶店の女には近づくな。ろくなことにならない』
いたずらだと思った。しかし、筆跡はどう見ても自分のものだった。
翌週の試験には、本当に三問目が出た。
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手紙は、それから毎週のようにとどいた。
『その会社の面接は受けるな。三年でつぶれる』
『あの株を買え。来年の春に三倍になる』
『その女性と結婚しろ。おまえには、もったいないくらいの人だ』
エヌ氏は、手紙のとおりにした。迷うことは、何もなかった。手紙が、いつも正しい答えを教えてくれたからだ。
仕事は順調だった。財産も増えた。手紙のすすめで結婚した妻は、たしかにやさしい人だった。
エヌ氏の人生には、失敗というものがなかった。
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三十歳の誕生日の朝、とどいた手紙は、いつもと少しちがっていた。
『今日から、おまえが手紙を書く番だ。これまでにとどいた手紙を、日付のとおりに、一通ずつ二十歳のおまえに送れ。書きうつすだけでいい。机の引き出しに、送り方の説明を入れておいた』
引き出しをあけると、たしかに古い紙が一枚入っていた。なぜそこにあるのか、エヌ氏にはわからなかった。だが、もう何もふしぎには思わなかった。
エヌ氏は、とっておいた手紙の束を取りだし、最初の一通を書きうつした。
『わたしは、十年後のおまえだ。信じられないだろうが、まあ読め……』
書きながら、エヌ氏はふと思った。この文章を最初に考えたのは、いったいだれなのだろう。自分は書きうつしているだけだ。十年前の自分は、それを読んだだけだ。
しかし、そのことを深く考えるのはやめにした。うまくいっているのだから、それでいい。
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それからの十年も、同じだった。
四十歳の自分から手紙がとどき、エヌ氏はそのとおりに暮らした。そして四十歳になると、とどいた手紙を三十歳の自分へ書きうつして送った。
娘が生まれた。家を建てた。会社では重役になった。すべて、手紙に書いてあったとおりだった。
ときどき、妻が言った。
「あなたって、迷ったことがないのね」
エヌ氏は、笑ってごまかした。
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五十歳の誕生日の朝。
エヌ氏は、いつものように郵便受けをあけた。
何も入っていなかった。
つぎの日も、そのつぎの日も、手紙は来なかった。一週間たっても、一か月たっても、六十歳の自分からの手紙は、一通もとどかなかった。
エヌ氏は青くなった。
手紙が来ないということは、六十歳の自分は、手紙を書かなかったのだ。いや、書けなかったのだ。つまり十年のうちに、自分は……。
エヌ氏は、夜もねむれなくなった。
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しかし、生きていかなければならなかった。
エヌ氏は、生まれてはじめて、自分で考えて決めることになった。
会社の新しい計画に賛成するか、反対するか。わからない。娘の結婚相手を、どう思えばいいのか。わからない。週末に、どこへ出かければいいのか。それさえ、わからなかった。
エヌ氏は、よく失敗した。部下の前で、まちがった判断をした。株で損もした。妻とは、つまらないことで何度もけんかをした。
けれど、ふしぎなことに、毎日が少しも退屈ではなかった。
朝、目をさますと、今日はどんな日になるのだろうと思う。何が起こるか、わからない。それが、こわくて、おもしろかった。けんかのあとで、妻と並んで食べた夕飯の味を、エヌ氏はいまでもおぼえている。
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そして十年がたった。
六十歳の誕生日の朝、エヌ氏は生きていた。体もいたって元気だった。
エヌ氏は書斎の机に向かい、便せんを広げた。今日から、五十歳の自分に手紙を書く番なのだ。何を書けばいいかは、わかっていた。この十年の失敗を、ひとつ残らず教えてやればいい。あの株は買うな。あの日は、妻に謝れ。そうすれば、五十歳の自分は、何ひとつまちがえずにすむ。
エヌ氏は、ペンを取った。
そして、しばらく窓の外をながめた。
それから、ペンを置いた。便せんを、ていねいにたたんで、引き出しの奥にしまった。
五十歳の自分のもとに、なぜ手紙が来なかったのか。エヌ氏は、ようやくその理由を知った。
その晩、エヌ氏は、明日のことを何も知らないまま、ぐっすりとねむった。




