第6話 毎朝、鏡の中の自分だけが一秒遅れる。
最初に気づいたのは、歯を磨いているときだった。
朝七時十二分。
会社へ行く準備をしていた彩香は、洗面台の鏡を見ながら歯ブラシを動かしていた。
右。
左。
右。
そのとき。
何かがおかしいと思った。
彩香が歯ブラシを止める。
鏡の中の自分も止まる。
ただ。
ほんの少しだけ、
遅かった。
「……ん?」
彩香は眉をひそめた。
右手を上げる。
鏡の自分も右手を上げる。
普通だ。
顔を傾ける。
同じ。
「寝ぼけてるだけか」
そう思って歯磨きを続けた。
その日は、それで終わった。
翌朝。
七時十二分。
彩香はまた鏡を見ていた。
昨日のことを思い出す。
試しに、急に右手を上げた。
鏡の中の自分も右手を上げた。
だが。
やはり。
遅い。
ほんの一瞬。
一秒あるかないか。
「……やっぱり」
今度は両手を上げる。
鏡も両手。
首を右に傾ける。
鏡も右。
すべて同じ。
ただし。
少し遅れてついてくる。
スマホで動画を撮ってみた。
鏡に向かって手を振る。
右。
左。
右。
撮影した動画を確認する。
普通。
遅れていない。
「何これ……」
肉眼で見たときだけ。
そんなことある?
彩香は気味悪くなりながらも、仕事へ向かった。
彩香は二十八歳。
都内の広告会社で働いている。
一人暮らしを始めて四年。
今のマンションに引っ越して一年半。
これまで変なことは一度もなかった。
帰宅後。
彩香は洗面所の鏡を見た。
午後八時四十分。
普通だった。
手を振る。
同時。
首を傾ける。
同時。
「朝だけ?」
翌日。
七時十二分。
また遅れた。
その翌日も。
その次の日も。
必ず朝七時十二分。
鏡の中の自分だけが、
一秒遅れる。
一週間後。
彩香は友人の真帆に相談した。
「それ、怖くない?」
「怖いから言ってるんだけど」
「動画には映らないんでしょ?」
「うん」
「疲れてるんじゃない?」
「私もそう思った」
「最近仕事忙しいし」
「でも毎日同じ時間なんだよ」
真帆は少し黙った。
「じゃあ、明日の朝ビデオ通話しようよ」
「なんで?」
「私もリアルタイムで見る」
「映像じゃ遅れないって」
「でも彩香の反応は見れるじゃん」
翌朝。
七時十分。
彩香は洗面所で真帆とビデオ通話していた。
『もうすぐじゃん』
「うん」
七時十一分。
彩香は鏡の前に立つ。
七時十二分。
右手を上げた。
鏡の自分が、
一秒遅れて上げる。
「ほら!」
『何が?』
「今遅れた!」
『普通だったけど』
「いや、絶対遅れた」
彩香は左手を上げる。
鏡は一秒後。
「また!」
『彩香』
「何?」
真帆の声が変わった。
『今さ』
「うん」
『鏡の中の彩香、笑ってなかった?』
彩香の動きが止まった。
「……え?」
『一瞬だけ』
「私、笑ってないけど」
『だよね』
彩香はゆっくり鏡を見る。
自分がいる。
無表情。
「何もないよ」
『うん、今は普通』
彩香はスマホを持って、洗面所から出ようとした。
その瞬間。
真帆が叫んだ。
『待って!』
「何?」
『鏡!』
彩香は振り返りそうになった。
「何?」
『彩香がまだいる』
「……は?」
『鏡の中に』
彩香は凍りついた。
自分は洗面所の入口にいる。
なら鏡には、横向きの自分が映っているはず。
しかし。
真帆の画面には。
鏡の中の彩香が、
正面を向いて立っていた。
『こっち見てる』
「やめて」
『彩香、鏡見ないで』
「何してるの?」
『……笑ってる』
彩香は洗面所から飛び出した。
その日。
仕事は休んだ。
昼。
鏡を確認する。
普通。
夜。
普通。
おかしいのは朝七時十二分だけ。
彩香は考えた。
鏡を外してしまえばいい。
しかし壁に固定されているタイプで、簡単には外せない。
そこで大きなタオルをかけた。
鏡全体を隠す。
「これなら」
翌朝。
七時十一分。
彩香は洗面所へ入らなかった。
リビングで時計を見る。
七時十二分。
何も起きない。
一分。
二分。
三分。
「終わり?」
少し安心した。
そのとき。
洗面所から音がした。
コン。
彩香は顔を上げた。
コン。
鏡を叩くような音。
コン。
コン。
「……」
彩香は動かなかった。
やがて音が止まった。
七時十五分。
恐る恐る洗面所へ向かう。
タオルはそのまま。
床にも何もない。
彩香はタオルを外そうとして、
やめた。
そのまま会社へ行った。
帰宅したのは午後九時過ぎ。
玄関を開ける。
部屋は暗い。
いつも通り。
照明をつける。
異常なし。
バッグを置く。
コートを脱ぐ。
そのとき。
洗面所を見る。
「……え?」
タオルが落ちていた。
鏡がむき出しになっている。
「なんで」
朝、しっかりかけた。
風で落ちるような場所でもない。
彩香は鏡に近づく。
自分が映る。
普通。
「……」
よく見る。
鏡の隅。
指でなぞったような跡。
何か文字が書かれている。
湯気もないのに。
彩香は顔を近づけた。
四文字。
『あしたは』
その下。
『みないで』
彩香は後ずさった。
誰が書いた?
部屋に入った形跡はない。
鍵も閉まっていた。
彩香はすぐ真帆に電話した。
「今日泊めて」
『何かあった?』
「鏡に文字が」
『今から来なよ』
彩香は最低限の荷物をまとめた。
玄関へ向かう。
その途中。
洗面所を見てしまった。
鏡の中。
自分が映っている。
彩香は玄関へ向かって歩いている。
鏡の中の自分も動く。
同時。
普通。
だが。
彩香が玄関で止まっても。
鏡の中の自分だけが、
歩き続けた。
「……」
鏡の自分は洗面所の外へ出ようとする。
当然、
鏡の外へは出られない。
画面の端まで歩き。
そこで止まった。
そして。
振り返った。
彩香を見る。
口が動く。
声は聞こえない。
何か言っている。
彩香は怖いのに、
読もうとしてしまった。
口の形。
ゆっくり。
『あした』
次。
『七時十二分』
次。
『絶対』
鏡の中の自分の表情が変わる。
怯えている。
泣いている。
『見ないで』
その直後。
鏡の奥から、
別の手が伸びてきた。
背後から。
彩香の鏡像の口を塞ぐ。
鏡の中の彩香が暴れる。
彩香は悲鳴を上げた。
鏡から目を逸らした。
数秒後。
もう一度見る。
普通だった。
自分しか映っていない。
その夜は真帆の家に泊まった。
「明日、七時十二分どうする?」
「鏡見ない」
「ここにも鏡あるよ」
「全部隠して」
真帆は家中の鏡をタオルや布で覆った。
洗面所。
姿見。
化粧台。
テレビの黒い画面まで布をかけた。
「スマホの画面も?」
真帆が聞いた。
「念のため」
二人はスマホも伏せた。
翌朝。
七時十一分。
二人はリビングの床に座っていた。
「あと一分」
「言わなくていい」
七時十二分。
何も起きない。
静か。
「大丈夫じゃん」
真帆が言った。
彩香は答えなかった。
十秒。
二十秒。
三十秒。
そのとき。
キッチンから音。
カタン。
真帆が見る。
「何?」
「見ないで」
「鏡ないよ」
真帆が立ち上がった。
「コップじゃない?」
キッチンへ向かう。
そして。
動きを止めた。
「……彩香」
「何?」
「窓」
キッチンの小さな窓。
夜露のように曇っている。
そこに。
文字が浮かんでいた。
『みつけた』
彩香の呼吸が止まった。
「逃げよう」
二人は玄関へ向かった。
そのとき。
真帆のスマホが鳴った。
通知。
画面が光る。
彩香は反射的に見てしまった。
黒い画面。
通知の後ろに、
自分の顔が反射している。
そして。
一秒遅れて。
鏡像が笑った。
「……」
スマホの中の自分が、
口を開いた。
音はない。
でも読める。
『そこじゃない』
彩香は真帆のスマホを落とした。
「何が?」
真帆が聞く。
「ここじゃない」
「え?」
「鏡じゃない」
彩香は気づいた。
鏡だけじゃない。
窓。
スマホ。
テレビ。
スプーン。
黒いガラス。
自分を映すもの全部。
「反射だ」
彩香が言う。
「何?」
「鏡じゃなくて、私が映るところ全部」
真帆の顔色が変わる。
部屋を見渡す。
テレビ。
窓。
金属。
電子レンジ。
無数にある。
「じゃあどうするの?」
答えられない。
そのとき。
テレビを覆っていた布が、
ゆっくり落ちた。
二人は同時に見た。
電源の切れた黒いテレビ。
そこに、
彩香と真帆が映っている。
二人とも立っている。
だが。
テレビの中では。
真帆しか立っていなかった。
彩香がいない。
「……私、映ってない」
真帆が震えた声で言う。
「彩香」
テレビの中。
真帆の隣。
ゆっくり、
何かが浮かび上がる。
彩香。
いや。
彩香と同じ顔。
ただし。
目が真っ黒だった。
そしてそいつは、
テレビの中で真帆の肩に手を置いた。
現実の真帆が叫ぶ。
「触られた!」
肩を押さえる。
誰もいない。
テレビの中の彩香が笑う。
「逃げる!」
二人は玄関を飛び出した。
外。
朝の住宅街。
人がいる。
通勤する会社員。
犬の散歩をする老人。
車。
安心できる景色。
「もう大丈夫」
真帆が息を切らして言った。
彩香は頷いた。
そのとき。
向かいから自転車に乗った女性が来た。
サングラスをかけている。
彩香は何気なくそのレンズを見た。
自分が映る。
一秒遅れて、
そいつが笑った。
「……来る」
「え?」
彩香は顔を逸らした。
「見ちゃダメ」
「何を?」
「何にも映らないようにしないと」
不可能だ。
街にはガラスがある。
車の窓。
店舗。
スマホ。
水たまり。
すべてが反射する。
彩香は地面だけを見るように歩いた。
しかし。
道路脇。
昨夜の雨でできた水たまり。
そこに足が映る。
彩香は止まった。
水面。
自分の足。
真帆の足。
そして。
三人目。
裸足。
二人の間に立っている。
彩香は見上げなかった。
「真帆」
「何?」
「走って」
二人は走った。
駅前。
人が多い。
彩香は下を向いたまま。
真帆が手を引いてくれる。
「どこ行く?」
「わからない」
「病院?」
「これ病院でどうにかなる?」
「じゃあ神社とか」
「わからない」
そのとき。
駅の大型ビジョンが切り替わった。
広告。
黒い背景。
彩香は顔を上げてしまった。
巨大な画面に、
自分が映っていた。
ありえない。
カメラ映像ではない。
彩香だけ。
真っ黒な背景の中。
立っている。
周囲の人々は気づいていない。
広告を見ているだけ。
画面の中の彩香が、
口を開く。
今度は声が聞こえた。
駅中に響く。
「もう遅いよ」
彩香は凍りつく。
真帆が周囲を見る。
「今の聞こえた?」
誰も反応しない。
聞こえているのは二人だけ。
画面の中の彩香が言う。
「毎朝、一秒ずつ近づいてた」
「何に?」
彩香が思わず聞く。
「あなたに」
画面の自分が笑う。
「最初は一秒」
「次は二秒」
「次は三秒」
彩香の顔色が変わる。
確かに。
最初は一秒だった。
でも最近。
鏡の中の自分が勝手に動く時間が長くなっていた。
「今日で」
画面の中の自分が言う。
「ちょうど十秒」
真帆が彩香の手を握る。
「逃げよう」
画面。
「あと十秒で」
彩香は動けない。
「私がそっち」
九。
「あなたがこっち」
八。
「になる」
七。
彩香は画面から目を逸らした。
六。
駅のガラス。
そこにも自分。
五。
車の窓。
四。
通行人のスマホ。
三。
全部に自分がいる。
二。
そして。
全部の自分が、
同時に笑った。
一。
音が消えた。
彩香は目を開けた。
駅前。
いつも通り。
大型ビジョンには普通の広告。
真帆が隣にいる。
「……終わった?」
彩香が言う。
真帆は何も答えない。
「真帆?」
真帆が、
後ずさった。
「どうしたの?」
「彩香……」
「何?」
「声が」
「声?」
「違う」
彩香は自分の手を見る。
普通。
体もある。
「何が違うの?」
真帆の目に涙が浮かんだ。
「顔」
「え?」
真帆は震えながらスマホを取り出した。
カメラを起動。
彩香へ向ける。
画面を見せる。
そこには。
彩香が映っていた。
普通の顔。
「何も――」
彩香は途中で止まった。
画面の彩香。
まばたきしない。
現実の彩香は今、
まばたきをした。
でも。
画面の中の彩香は、
動かなかった。
そして。
一秒後。
まばたきをした。
「……戻っただけじゃん」
彩香が言う。
真帆は首を横に振った。
「違う」
「何が?」
「今まで遅れてたのは」
真帆が泣きながら言った。
「鏡の中だったんでしょ?」
彩香は黙った。
「今は」
真帆が言う。
「彩香の方が、一秒遅れてる」
その瞬間。
彩香の視界が揺れた。
目の前の真帆が、
一秒先に動いた。
手を上げる。
一秒後。
自分の身体が勝手に反応する。
一歩下がる。
一秒後。
自分の足が下がる。
「……何これ」
声すら。
口が動いた一秒後に出る。
真帆が叫ぶ。
「彩香!」
彩香は答えようとした。
だが。
自分より先に、
スマホの画面の中の彩香が答えた。
『大丈夫』
現実の彩香は、
言っていない。
なのに。
一秒後。
自分の口が勝手に動いた。
「大丈夫」
彩香は泣いた。
「違う!」
しかし。
画面の彩香は笑う。
そして、
先に言った。
『帰ろう』
一秒後。
現実の彩香の口。
「帰ろう」
「彩香?」
真帆が後退する。
彩香は必死に首を振ろうとする。
でも動かない。
画面の中の自分が、
先に首を傾けた。
一秒後。
自分も同じ動きをした。
もう。
鏡の自分が遅れているのではない。
彩香自身が、鏡の中の動きを真似している。
その日。
真帆は彩香を家に連れて帰った。
彩香はほとんど話さなかった。
正確には。
話せなかった。
反射に映る自分が先に動き、
現実の体は後からついていく。
夜。
真帆はすべての鏡を隠した。
スマホも電源を落とした。
テレビにも布。
窓もカーテン。
「これなら大丈夫だから」
彩香はベッドに座っている。
真帆が言った。
「今日は寝よう」
彩香は頷いた。
一秒前に。
どこかで、
同じ動きをしている何かに従って。
翌朝。
七時十一分。
真帆は目を覚ました。
隣に彩香がいない。
「彩香?」
リビング。
いない。
洗面所。
誰もいない。
だが。
鏡にかけていたタオルが、
床に落ちている。
真帆は嫌な予感がした。
ゆっくり鏡を見る。
そこに。
彩香がいた。
鏡の中だけに。
「……彩香?」
鏡の彩香が泣いている。
口を開く。
声は聞こえない。
でも読める。
『たすけて』
真帆が鏡に近づく。
「彩香!」
鏡の彩香が必死に首を振る。
そして。
真帆の背後を指さす。
真帆の体が固まった。
振り返りたくない。
鏡を見る。
真帆の後ろ。
現実の彩香が立っていた。
「……真帆」
声。
真帆は鏡越しに見る。
現実の彩香。
笑っている。
鏡の中の彩香。
泣きながら首を振る。
背後の彩香が言った。
「おはよう」
真帆は返事をしない。
「どうしたの?」
一歩近づく。
鏡の中の本物の彩香が、
口を動かす。
『みないで』
背後の彩香。
「ねえ」
さらに近づく。
『ふりかえらないで』
真帆は目を閉じた。
背後から肩に手が置かれる。
「真帆」
「……」
「こっち見て」
真帆は泣きながら、
鏡だけを見ていた。
鏡の中の彩香が叫んでいる。
声は聞こえない。
そして。
時計が、
七時十二分になった。
一秒。
二秒。
三秒。
真帆の背後の手が、
肩から首へ移動する。
七秒。
八秒。
九秒。
十秒。
鏡の中の彩香が、
突然消えた。
真帆は息を止めた。
鏡には、
自分しか映っていない。
背後の気配も消えている。
「……彩香?」
返事なし。
恐る恐る振り返る。
誰もいない。
床。
彩香のスマホだけが落ちている。
電源が勝手についた。
インカメラ。
真帆の顔が映る。
「……」
真帆はスマホを見た。
自分が映っている。
普通。
右手を上げる。
画面の自分も上げる。
同時。
真帆は安心しかけた。
だが。
スマホを下ろそうとした、そのとき。
画面の中の真帆が、
先に笑った。
現実の真帆は、
笑っていない。
一秒後。
真帆の口元が、
勝手にゆっくり持ち上がった。
――第6話 完――




