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九条雅紀が死んだ。  作者: 綾見 恋太郎


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第一話 九条雅紀死亡

 電話の音で目を覚ましたとき、真壁彰はまず時刻を見た。午前四時三十八分。

 刑事の枕元で鳴る電話としては、最悪に近い時間だった。

 表示された発信元を見て、眠気は消えた。湾岸署の江藤。若い巡査部長だが、雑に人を叩き起こす男ではない。

 真壁は上体を起こし、通話を取った。

「何があった」

 江藤はすぐには答えなかった。受話口の向こうで、浅い呼吸が一つ聞こえた。言わなければならない。だが、言った瞬間にその言葉が事実の形を持ってしまう。そういう沈黙だった。

「湾岸で遺体が一体。焼損です」

「場所は」

「埋立地の管理道路脇。資材置場の外れです」

 真壁はベッドの縁に足を下ろした。カーテンの隙間から、色の薄い朝が差している。空が明るくなる前の、街だけが先に動き始める時間だった。

「それで、俺に何の用だ」

「身元照合で、気になる点が出ています」

「身元不明なら通常どおり回せばいい」

「その通常どおりを回してる最中に、名前が一つ浮きました」

 真壁は黙った。

 嫌な言い方だった。

 名前が浮く。

 確証のない現場で、人がいちばん使いたがる表現だ。

「誰だ」

「……現場で言います」

「今言え」

 短く返すと、江藤はさらに一拍置いてから言った。

「焼け残りの鍵と、眼鏡フレームの断片、それから施設系の入構証らしきものが出ています。あと、初期所見で利き手の推定が」

「要点だけ言え」

「……九条先生に寄っています」

 その瞬間、真壁の中に走ったのは驚きではなかった。

 怒りでも、悲鳴でも、絶望でもない。

 もっと乾いた拒絶だった。

 九条雅紀という名前を、そんな雑な部品だけで死者の欄へ置くな。

「どこまで共有が走ってる」

「署内初動だけです。まだ外には」

「まだ、じゃない。今この時点で人名は外せ。全部『身元不明焼損死体』で統一しろ。メモも口頭も同じだ。誰が最初にその名前を置いたか、あとで全部拾う」

「はい」

「二十分で出る。現場保存しとけ」

 通話を切り、真壁はすぐに別の番号へかけた。九条雅紀の携帯だった。

 呼び出し音は二度鳴り、三度目に入る前に留守番電話へ切り替わった。

 電源が落ちている時とは違う、繋がる範囲にはあるが取らない時の切れ方だった。

 真壁は画面を見たまま、一度だけ指先に力を入れた。

 見間違いであってほしいとは思わなかった。そう願うには、状況が悪すぎる。

 むしろ知りたいのは、どういう雑さで九条雅紀の名へ寄せられたかだった。

 洗面台で顔を洗いながら、真壁は頭の中に九条の特徴を並べた。痩身。左利き。視力はいいが、色素が薄いので日差しが強いときには色付きの眼鏡をかけることがある。眼鏡の型は何度か変わっているが、古いフレームを予備で持っていた時期がある。医療施設や行政施設への入構証も複数所持している。湾岸部の収容施設や保管設備に出入りすることも、仕事上あり得る。

 だからこそ危ない。

 九条らしさは、現場に落ちていても不自然ではない部品で構成されている。

 九条を仮身元に使うには、都合がよすぎる。

 ネクタイを締め、上着を羽織り、拳銃ではなく手帳と端末の位置だけを確かめて部屋を出た。廊下に出ると、建物全体がまだ寝息を残している時間だった。だが街の下層では、新聞輸送や市場搬入や清掃車がもう動いている。

 説明だけが先に目を覚ます時間だ、と真壁は思った。

 車に乗り込み、エンジンをかける。朝の都心を湾岸へ抜ける道は、まだ本格的な渋滞にはなっていなかった。高架の向こうに色を持たない海が見え、倉庫群の輪郭が低く並ぶ。

 信号待ちで停車した際、助手席に置いた端末が震えた。湾岸署から、現場到着予測時刻の確認と、初期回収物の簡易写真が送られてきた。

 真壁は赤信号の短いあいだに目を通した。

 焦げた金属片に番号が打たれた鍵。レンズのない眼鏡フレームの一部。熱で縮れ、半分溶けたプラスチックカード片。そこに印字されていた文字はほとんど読めないが、色味と厚さは、病院や研究施設で使う簡易入構証に近い。

 どれも弱い。

 弱いものばかりだ。

 だから厄介だった。弱い物証は、単体なら簡単に捨てられる。だが複数集まると、人は説明の空白に耐えきれず、仮の名前を置きたがる。見分けがつかない死体ほど、周囲は早く名前を欲しがる。

 真壁は九条へもう一度発信しかけ、指を止めた。

 繋がらないことそのものは、まだ何の証拠でもない。

 問題は、何をもって現場が九条へ寄り始めたかだ。

 現場に着いたとき、空はようやく白みを増していた。埋立地の朝は街中より風が強い。海と油と湿った鉄の匂いが混じり、倉庫の壁面を擦るように流れていた。資材置場の奥、仮設バリケードの向こうに青いシートと鑑識車両が見える。

 警官の数は多すぎなかった。初動処理はすでに整えられ、騒がしさよりも妙な静けさがあった。

 その静けさが、真壁にはかえって不穏だった。皆、どこまで慎重に話すべきかを探っている。だが探っている時点で、もう一つの可能性が全員の頭に共有されている。

 江藤が走ってきた。

「おはようございます」

「遅い」

「すみません」

「説明はあとだ。まず見る」

 シートの内側に入ると、現場保存のために砂利が踏み固められた範囲の先に死体があった。仰向けではなく、やや横向きに崩れた姿勢。焼損と海水と泥汚れが重なり、衣類の判別も難しい。皮膚の損傷は強く、顔貌は使えなかった。

 真壁は数秒だけ全体を見て、次に足元と周辺へ視線を移した。死体の損傷そのものより、何がそばに置かれ、何が離れていたかのほうが重要だった。

「海から上がったのか」

「護岸下の水際ではなく、道路脇です。引きずり痕は今見てますが、はっきりしません。海水はかぶってる可能性があります」

「顔は」

「確認に使えません」

「歯科照合は」

「これからです。ただ、保存状態が」

 そこで江藤が言葉を切る。代わりに、鑑識の年配の男が近づいてくる。

「真壁さん、まだ正式ではありませんが、特徴がいくつか」

「その言い方をやめろ」

 真壁は視線を死体から外さないまま言った。

「正式じゃないなら、人名も寄せるな」

 鑑識の男は一瞬だけ口を閉じ、それから実務の顔に戻った。

「焼け残りの鍵が一つ。番号刻印あり。眼鏡フレーム片が一つ。簡易カード片が一つ。体格は成人男性。骨格から見て痩せ型寄り。あと、上肢の筋付着部と骨の偏りから、左利きの可能性があります。ただし焼損が強いので確度は低い」

「それだけか」

「現時点では」

 死体は、九条に似ていたのではない。九条として読み始めるには充分なだけ、部品が揃っていた。

 真壁はしゃがみ込み、死体そのものではなく、その周辺に示された番号札の位置関係を追った。鍵は右手からやや離れた場所、眼鏡片は胸元付近、カード片は腰の下敷きになっていたらしい。偶然そうなったのか、動かされた結果なのか、今はまだ分からない。

「利き手推定を先に共有したのは誰だ」

「雑談の範囲です」

 江藤が答えた。

「雑談で人は死ぬ。記録に残ってないから安全だと思うな」

 江藤は息をのんだ。真壁はそこでようやく顔を上げた。

「今この場で、こいつは身元不明焼損死体だ。名前を付けるな。『先生案件』も禁止だ。メモも口頭も全部戻せ」

 若い警部補が頷き、周囲に指示を飛ばした。その最中、少し離れたところで別の署員が電話越しに言ったのが聞こえた。

「……いや、まだ仮ですが、九条――」

「切れ」

 真壁の声は自分でも驚くほど低かった。相手の署員が固まる。真壁は歩み寄り、携帯を下ろさせた。

「誰に何を伝えた」

「署内の照会で」

「人名を置くなと言ったはずだ」

「ですが、照会先が分からないと絞れなくて」

「絞るな。今は広げろ。身元不明で回せ」

 正式確認はまだだという顔をしながら、現場の空気だけがもう九条死亡の方へ傾いていた。確認前、仮置き、いったん保留。そんな言葉ほど、人の名前を深く傷つけることがある。

 真壁は現場責任者を呼び、共有メモを確認させた。ホワイトボード代わりのクリップボードには、時刻、通報者、死体発見位置、回収品目が並び、その下に鉛筆で小さく「九条先生?」と書かれていた。

「消せ」

 責任者がすぐに線を引こうとする。

「違う。訂正線じゃない。書き直せ。人名が一度見えた記録は痕になる」

「……分かりました」

「初期共有ルートも洗え。誰が最初に口にしたか、誰が受けて、どこまで行ったか。後で必要になる」

 責任者は表情を引き締めた。真壁の怒りが、単なる感情ではなく手続きの修正に向いていることを理解したのだろう。

 初期物証のテーブルへ移る。透明袋に入れられた鍵は、熱で変色しながらも番号が読めた。真壁はそれを見て、すぐにどこの鍵か断定はしなかった。施設鍵には番号体系の似通ったものがいくらでもある。九条が出入りしていた施設群と接続しうる、ただそれだけだ。

 眼鏡フレーム片は古い型だった。九条が昔使っていたものに近い気はする。だが市販品の範囲を出ない。これも弱い。

 カード片はさらに弱かった。医療・施設関係者に配られる簡易カードの素材と色調に近いが、個人名も所属も読めない。同型使用者は複数いる。

「単独では全部弱い」

 真壁はテーブルに指を置いたまま言った。

「弱いものを先に束ねるな。この段階で人名を置くな」

「はい」

「左利き推定も同じだ。可能性は可能性として置いとけ。人名への橋にするな」

 鑑識の男が頷く。

「ただ、左利きはけっこう珍しいので、どうしても現場では」

「珍しいから便利なんだよ」

 真壁は言った。

「便利な特徴ほど、誰かを死者にする部品として使われる」

 ふと、背後で車の停まる音がした。

 現場には似つかわしくない、だがよく整備された静かなエンジン音だった。真壁が振り向くと、規制線の外に黒いセダンが停まり、二階堂壮也が降りてきた。コートの襟元まできっちり整え、朝の風を受けても髪一つ乱れていない。

「どうして来た」

 真壁が歩み寄ると、二階堂は規制線の手前で立ち止まった。

「連絡が雑だった」

「誰から聞いた」

「内線の端。まだ仮ですが、という言い方でさ」

 それだけで充分だった。二階堂の耳に届くころには、もう複数の部署を経由している。

「中には入るな」

「入らない。見たいのは死体じゃない」

 二階堂は現場員の動き、クリップボードの持ち替え、電話を切ったばかりの若手の顔、そのすべてを一巡で読み取るように視線を流した。

「誰が最初に個人名を置いた」

「今洗わせてる」

「どのルートで共有が走った」

「それもだ」

「確認前にこの仮定を回すのは危険だ」

「知ってる」

「違う」

 二階堂は即座に返した。

「死体の問題だ、じゃない。説明の問題になり始めてる」

 その言葉で、真壁は自分の中にあった違和感の輪郭を、別の角度から撫でられた気がした。死体は現にそこにある。だが、いま目の前で起きている異常は、損傷の程度ではない。名前の流れ方だ。

「広報に出る可能性は」

「現時点ではない。でも、一度でも『九条死亡か』の仮共有が走れば、止めても痕が残る」

 二階堂は言った。

「人は訂正を覚えない。最初に聞いた形を覚える」

「だから今止めてる」

「止めるなら、言った人間を責めるだけじゃ足りない。ルートごと塞ぐ」

 真壁は短く息をついた。腹立たしいが、そのとおりだった。二階堂は死体を見ていない。にもかかわらず、この場で何が一番危険かを正確に嗅ぎ取っている。

「おまえのところに外から問い合わせは」

「まだない。来た瞬間に、どこから漏れたか逆算する」

「九条の所属には」

「俺からは入れてない。入れたら、その時点で仮説が事実になる」

 真壁は一度だけ頷いた。二階堂は冷たいのではない。言葉が走ったあとの取り返しのつかなさを、誰より分かっているだけだ。

 江藤が走ってきた。

「真壁さん、通信解析の初期結果です」

 紙を受け取り、真壁は内容に目を落とした。九条の携帯端末の最終通話時刻。データ通信の最終受信。位置情報の最後の補足地点。現場近く。ぴたりと一致ではないが、湾岸一帯のこの区画を含む範囲だった。

 二階堂が横から覗き込む。

「悪い」

「見えてる」

 真壁は紙を少し引いた。

 数日前、九条がどこにいたか。その答えがこの一枚で確定するわけではない。だが偶然と片づけるには、少し嫌な近さだった。

「他に何か」

「医務院側の照会で、九条先生が三日前に出した異議申立の控えがありました。匿名死案件です。身元処理について強い再検討を求めていたと」

「持ってこい」

 江藤が透明ファイルを差し出す。真壁は立ったまま読み始めた。

 案件番号、処理日、対象不詳、照合資料の不備、仮身元共有の早期化への異議。淡々とした文面の中に、九条らしい硬さがあった。感情ではなく、判断の筋で押し返している文だった。

 最後の一文で、真壁の目が止まった。

 身元は、誰かを当てる作業ではない。

 誰にされるかを止める作業でもある。

 紙の端を持つ指先に、わずかな力が入る。

 二階堂がその変化だけで気づいたらしく、「何て書いてある」と低く聞いた。真壁はすぐには答えなかった。いまここで音にしてしまうと、その文まで現場の共有物になる気がしたからだ。

 死者はまだ誰でもなかった。

 なのに周囲の言葉だけが、先に九条雅紀の形を取り始めていた。

 真壁は死体を見たのではなかった。

 九条雅紀という名前が、死者の欄へ滑り込んでいく最初の動きを見ていた。


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