初恋の終わる日
健気な女の子のお話です。
ソフィア・エルスターには姉と妹がいた。
二つ上の姉ニコラは幼少の頃から才気煥発な美少女で、両親にとって理想的な嗣子として輝かしく育った。
三つ下の妹のライラは早産で生まれた。
生まれてすぐに産科医は、父と祖父母だけに言ったという。
「この子は長く生きられないかもしれません」
それから両親はライラにかかりきりになった。
周囲の待望の男児でもなく、捨て置かれてもおかしくなかった三番目の女の子は、生まれてからずっと両親の手厚い庇護下にある。十二になった今でも。
そしてソフィアは、三歳からずっと、姉と妹の間でそれほど目をかけられることなく育った。
ソフィアが不出来なわけでは決してなかった。
家の状況にも腐ることなく、努力して、スクールの成績はなめて優秀だったし、性格も承認欲求は強めだが朗らかで優しい。
姉妹格差の中で三人が仲良くいられたのは、ソフィアが務めて明るくいたからだ。
そうしないと本当に捨てられてしまうのではないかとソフィアは思っていたのだ。
それはソフィアが十五の時だった。
「ソフィアはさー、相変わらずたくましいよな」
プレイルームのドアの隙間から、男たちの盛り上がる声が聞こえた。
ああ、なんてタイミングだ。
ソフィアは動きを止めた。
大人の男性たちは朝から鹿狩りに行っている。
雨の後で足場が悪いからと、子どもは置いて行かれてしまった。
単に大人だけで楽しみたかったのかもしれない。
女性たちは昼食後、裏庭にテーブルと椅子を出して小さな子供たちを遊ばせ、おしゃべりに夢中だ。
屋敷の中にはソフィアと同じ年代の男子しか残っていなかった。
ソフィアは体が震えるのがわかった。
クリストフ、あなた声が大きいのよ。
「健気さがないんだよね。全部自分で頑張ってます!私やれます!って主張が強い。いっつも怒ってるし。全然女らしくなんないね」
ベルトル。なんて賢しらな。あんたは年下だろ。許すまじ。
「顔もなー。その主張の強い性格な割に、パッとしないんだよなー。体つきもイマイチだし。もっと出るとこ出てくんないと、あれじゃ全然やる気になんねー」
あんまりだ。幼馴染とも言える異性にこんな下世話な笑いのネタにされていることに、喉の奥がぐっと締まる。
別の世界に紛れ込んだような違和感の中で、ベルトルの呆れた笑いが聞こえる。
「なんのやる気だよ。顔は悪くないんだけどね。やっぱニコラとライラに挟まれると霞むよね。ライラはどんどん可愛くなる」
ベルトルは昔からライラに恋している。
「バラの間にチューリップ置いたみたいな?」
「チューリップは良い例えすぎかな。ソフィアはたんぽぽくらいでちょうどいい」
確かに、と二人は盛り上がる。言いたい放題だ。
「枯れて行くたんぽぽは茶色いしな」
コンプレックスの髪のことを言われて、ソフィアは奥歯を噛み締めた。
姉妹の中で、両親と同じ淡い金色の髪をしていないのはソフィアだけだった。
クリストフは続ける。
「あれが婚約者で、可哀想だな」
困った。これ以上は聞きたくない。
ソフィアは一歩下がった。
社交のシーズンが終わり、領地貴族たちが自分たちの所領へ戻る時期だった。
王都エーデルフラベルクと西部地区の中間にあるラングレー州の州都マーケンは、西部への中継地として、繋がりのある貴族が一週間ほどを過ごす、国で三番目に大きな街だ。
今回も四組の家族が滞在し、週末の今日は子どもたちもマーケンのパブリックスクールから休みを利用して集まっていた。
そのマーケン郊外のサマーハウスでの、一幕だった。
「あの姉妹なら断然ライラの方が可愛いもんなー」
言われてしまった。
つ、と袖を引かれて振り向くと、そのライラが青い顔で自分を見ている。
「ソフィねえさま、戻りましょう」
小さな声で訴えてくるが、扉の向こうの話はまだ続いている。
「カイルも今からライラに変えて貰えば?」
ははは、と馬鹿にしたような笑い声。
ああ、自分は同じ年代の男の子たちからこんなふうに思われてたんだな、と、ソフィアは冷静に思った。
次のベルトルの言葉を聞くまでは。
「でもソフィア、カイルのこと大好きだからね」
ざ、と血の気の引く音がした。
「バレバレなんだよな!」
「最近やたら張り切ってて痛々しいよね」
「じゃライラに変えてもらうのは無理かー」
もう立っているだけでやっとだった。バレバレだったのか。うまく隠してるつもりだったのに。
婚約の話を両親に聞いた時、自分でいいのかと確認した。
先方が割と乗り気でな、と言った父に、夢見心地だった。
もしかしたらカイルも、なんて、女の子なら絶対に思ってしまう。
でも、もしかして。この流れだと…
「そりゃ俺だってライラの方がいい。あいつ煩いし。ソフィアとは親同士が婚約の話をしているだけで、まだ決まったわけじゃない。全然女として見られない」
くらり、と、ソフィアの視界は完全に揺れた。
カイルの冷ややかな声は、全員に本音なのだと知らしめた。
背中の汗が気持ち悪い。
そのくせ手も足も冷たくて、何だか息も苦しい。わんわんと耳鳴りもする。
早く立ち去りたいのに、後ろのライラにみっともないところを見せたくなくて、ソフィアは動けなかった。
こんなことで動揺してるだなんて、しかも自分と比べられて取り乱してるなんて、ライラには絶対に知られたくなかった。
平気なふりをしなければ。
でも、もう、息が。
「どうしたの、二人とも」
あまりに真剣に聞いていたために、後ろの気配に気づかず、大きく背中が跳ねた。
不思議そうに立っているミカエル・バルツァー。
王都の用事で遅れてくる予定の彼が、今到着したようだった。
旅装を解いて、挨拶に来たのだろう。真ん中で分けられているダークブロンドの髪がわずかに乱れている。
声をかけた二人が悪鬼を見たような表情をしていたせいか、ミカエルは若干引き気味に進んできた。
「入らないの?誰に用事?」
「あの、ミカエル様、」
完全に思考停止している姉を見かねて、ライラがミカエルを制止したが、少し遅かった。
「え、何?」
そう言って大きく開いた扉の向こうでは、これまた息を呑んだ男たちが動きを止めていたのだ。
驚いたようなカイルの視線が痛い。
クリストフが取り繕うように口角を上げて見せたが、
「ソ、ソフィア…」
呼びかける声は上擦っている。
奥のカードテーブルのカイルとクリストフを背に、ソファに座って本を広げるベルトルがいて、さらにその向かいにカイルの弟ルカの、振り向いた顔が見えた。
ルカ、可愛いルカ。あなたがあの会話に入ってなくて良かった。
青い顔の二人と、気まずそうな室内の様子から、ミカエルはようやく何かを察したようだった。
見渡して、少し考えて、ソフィアの手を引いた。
「伯爵に挨拶したいから、付き合って」
足早に進むミカエルに、ありがたくて涙が浮かぶ。
両親を早くに亡くしたミカエルは、同年代の男子の中でも大人だった。
歳の離れた兄を支えるために、懸命に勉強しているミカエル。
その優しさに救われた。
繋いでくれていた手が震える心にも暖かくて、溜まっていた涙が瞬きと一緒にぱたぱたと落ちた。
角を曲がって、しばらく進んで、エントランスホールに着く。
ミカエルは、後ろを着いてきていたライラに向き合った。
「ニコラたちのところに戻れるかい?」
他の女性たちがどこにいるのか知っていたのだろう。裏庭へのドアを開けてライラを帰すと、また手を繋いで歩き出した。
「お父様に挨拶じゃなかったの?」
ぐすん、と鼻がなる。
潤んだ声は恥ずかしかったが、ミカエルは前を向いたまま首を横に振った。
「まだ帰ってきてないんだろ?ゼフに聞いた」
ゼフは従僕の名前だ。
では、ソフィアを救うためにあの場を離れてくれたのだ。
今も、泣き顔を見ないようにしてくれている。
傷心のところを優しくされて、ソフィアの涙腺は裏玄関からバックヤードに出たところで完全に壊れた。
温室の奥にある、菜園の手前のベンチまで歩いて、ミカエルは止まった。
ハンカチを敷いてくれたので、遠慮なく座ることにした。
ひとしきり泣いて、ずび、と鼻を啜って一つしゃっくりが出る。
何度か深呼吸をしたところで、ミカエルは頭を撫でていた手でぽんぽん、とソフィアの背中を何度か叩いた。
「落ち着いた?」
うん、とソフィアが頷く。目元も鼻の頭も真っ赤になっているだろう。恥ずかしいがもう遅い。
ひく、と名残のようなしゃっくりが出て、ソフィアは涙を拭っていたハンカチを口元に当てた。
「ライラが、可愛いアマガエルを見つけて」
「うん?」
話が飛躍したな、とミカエルは思った。
沼アマガエルは成長しても一インチくらいにしかならない、特に小さなカエルだ。
もちろん無毒だ。
「ルカに見せるんだって、うるさいから」
「それで、あそこに?」
「お母様が、家の中にカエルを持って行くのはやめてって。だから呼びに行った」
良かった、ライラがずっと握りしめていたのかと思った。
十二歳、まだまだ子どもだ。
「そしたら、みんなで私が可愛くない、女らしくないって、話してて」
喋っているうちに止まったはずの涙がまた盛り上がって来て、ソフィアはハンカチで目元を覆う。
ああ、なるほど予想通りだ。
この年頃の男なんて、集まれば女性の話ばかりだ。
いいことも、悪いことも、声高にしゃべる。
「クリストフとベルトルなんて、どうでもいいの」
酷い言い草だ。
「カイルがずっと好きだった」
「うん」
「知ってた?」
「…うん」
「みんな知ってたんだ」
「そう、かも」
そっかぁ、とソフィアは笑おうとして、顔を歪める。
「好かれてるなんて思ってなかったけど、嫌われてたなんて」
声が揺れている。
「そんなことないと思うよ」
ソフィアのハンカチを握る手に力が入る。
「うるさくて、好きじゃない、って言ってたもの」
「そう…」
「婚約の話が出て、浮かれてたの。恥ずかしい」
「そんなに嬉しかったの?」
うん、とソフィアは素直に頷く。
普段の気の強さは微塵も見られない。だいぶやられてるな、とミカエルは思った。
「もしかしたらカイルと結婚できるかもと思って、作法も勉強も頑張ってた」
「そうだね」
「頑張ってたのも恥ずかしい」
「うん…」
しばらく涙を流して、ソフィアは顔を上げた。
「あそこにいたら、ミカエルも同じこと言ってた?」
「同じこと?」
「私が可愛くない、ライラが良かったって」
自分で言ってまた涙が溢れて来て、語尾は掠れた。
情緒が死んでいる。
そんなこと聞かれても困るだろうけど、ミカエルが否定してくれないと、もう立ち直れなさそうだった。
「言わないよ」
一度区切って、ソフィアの肩を両手で掴んでミカエルは言った。
「そんなこと、絶対言わない」
温かいグレーの瞳が真剣な色をしていて、ソフィアの涙腺はまた壊れた。
お茶の時間をすっぽかしてしまった二人は、のろのろと並んで屋敷へ戻ることにした。
遠く馬の嗎が聞こえて来たから、大人たちも帰って来ている途中なのだろう。
「ソフィア、僕ね、こうやってラングレーに来ることはもうないかもしれない」
うまく理解できなくて、え、とミカエルを見上げる。
昔は同じくらいだった背も、いつのまにか頭一つ分くらい目線が違う。
「王都のパブリックスクールに編入することにした。その手続きでおとといから王都に行っていたんだ」
立ち止まってしまったソフィアを振り返り、その手を引いてまた歩き出す。
「外交官になりたいんだ。お祖父様と兄上の許可ももらった。一度家に帰って、またすぐ王都に戻るよ」
なんとなく、ミカエルはニコラと結婚するのではないかと思っていた。
そういえばミカエルの叔父は大使として隣国に赴任している。
「ニコラは知ってるの?」
うん、と穏やかにミカエルは頷く。
「応援してくれてる」
「私、ミカエルは私のお兄さんになるんだと思ってた」
「残念だけど、そうはならないかもね」
そっか、とソフィアは呟いた。
「いいな」
ふと漏れたそれに、今度はミカエルが立ち止まった。
二人の視線が交錯して、一度迷ったように目を泳がせ、またソフィアを見てミカエルは言った。
「ソフィアも、来る?」
え、と言いかけたソフィアに、いや、違う、と慌てて手を振り、続ける。
「来るっていうか、僕も寄宿舎なんだけど。何となく、ソフィアは外に出たいんじゃないかと思っていて」
「それは…」
「ずっとイライアとマルタルージェの言葉、勉強してるんでしょ」
イライアは陸続きの西の大国、マルタルージェは海を挟んだ近隣国だ。
言語体系が似ているので日常の会話は容易だが、難しい文章を読むとなると深い理解が必要だった。
「ニコラに聞いたの?」
うん、とミカエルは頷く。
「ソフィア」
ミカエルの見たこともないくらい切実な表情に、少し脈が早くなる。
「ソフィア、聞いてほしい。ラングレーから出たくなったら、僕が相談に乗るから。一人で悩まないで、絶対に手紙をちょうだい。わかった?」
言い聞かせるような言葉の勢いに、ソフィアは呑まれるように頷いた。
その夜、ソフィアは高熱を出した。
ディナー中にどんな顔をしたらいいのかわからなかったから、これ幸いとベッドに潜り込んで時間を潰した。
ライラに顛末を聞いたのだろうニコラが、コックのマリオン特製ブルーベリータルトと紅茶の乗ったカートを持って来て、何も言わずに食べ終わるのを待って戻って行った。
他の誰も来なかったところを見ると、プレイルームの出来事も、ミカエルと二人で長く外にいたことも、大人の中で話題にはならなかったようだ。
寝ている間に両親が来たと侍女のサラが翌朝教えてくれたが、それが本当かどうかはわからなかった。
翌々日、西部の家族たちを見送るためにラングレーの面々はエントランスに立った。
クリストフとベルトルは、他の家族に挨拶して、こちらを見ることなくそそくさと車に乗り込んでドミトリーへ帰ってしまった。
小さい奴らだ。
ライラと別れを惜しんでいたルカは、隣にいたソフィアのそばにテクテクやってきて(もう十一なのでその表現はイマイチだが、永遠の弟キャラのルカはソフィアの中でまだ小さな少年なのだ)、ソフィアの手を握り込んでこそっと囁いた。
あれ、意外と背丈は同じくらいだ。
「ぼくは、ソフィアの事すごくきれいだと思うよ」
か、か、かわいい!励ましてくれている。
気遣うような神妙な表情に思い出し泣きをしそうになったソフィアは、照れ隠しでルカにがばりとハグした。
「ルカ、ルカ、私と結婚して」
ルカがわわ、と両手を振って仰け反る。
かわいい。
「いいけど、ぼく次男だよ」
しっかりしている。
その後ろに離れて佇んでいたカイルは、機会を窺っていたのだろう。
ライラに軽くハグして、気まずげにソフィアの前に立った。
「ソフィア、楽しかったよ。ありがとう」
「うん。楽しめたなら良かった」
皮肉である。
カイルはしばらく迷うように口籠ったが、やがてしっかりとソフィアの目を見つめた。
ヘーゼルの、意志の強そうな眼差しが好きだった。
まっすぐな薄茶の髪は硬そうに見えてサラサラなのを知ってる。
いつも素っ気ないけど、ソフィアが一人きりでいる時は静かにそばにいてくれたし、本当に困った時は面倒臭そうにしながら手を差し伸べてくれた。
不器用な優しさを勘違いした。
「ソフィア、この前のことだけど、」
「大丈夫だよ」
被せるようにソフィアは言った。
「私、気にしてないから。カイルも気にしないで。今までうるさくしてごめんね」
うまく笑えなかった気がした。現にほら、隣のライラは眉を寄せて顔を伏せたし、カイルはどうしてか、あからさまに傷ついた顔をした。
「元気でね」
返事を待たずに身を翻す。
こんなところで泣かれても迷惑だろうし、もう十分頑張った。
父の隣のニコラと話し込んでいるミカエル目掛けて突進する。
背中にぶつかってきたソフィアに目を丸くしたミカエルは、ソフィアの背後を見て納得した。
呆然としたような顔で立ち尽くすカイルが目に入った。
顔を歪ませて涙を堪えるソフィアを胸に抱き入れて、よしよしと頭を撫でた。
周りの大人たちが何事かと騒然としているが、ミカエルの祖父だけは面白そうに青灰の双眸を瞬かせた。
「ソフィア、手紙書くから」
うん、と肩口で頷く気配がする。
「返事、絶対書いて」
またうん、と大きく頷いて、ソフィアはミカエルから離れた。
「ミカエル、ありがとう。頑張ってね。またね」
ソフィアが生まれ育ったラングレー州で過ごした、最後の秋だった。
読んでいただいてありがとうございました。
ソフィアはこの後ラングレーを出ます。
カイルは幼馴染の女の子を傷つけてしまったことを、ずっと忘れられないで過ごします。




