第2章 夜行列車は嘘を暴く
第2章 夜行列車は嘘を暴く
列車が動き出して一時間。
窓の外はどこまで行っても漆黒の闇だ。
私は交換してもらった喫煙個室のベッドに腰を下ろしていた。
壁やカーテンから染みついたタバコの匂いが鼻をつく。普段なら顔をしかめるレベルの濃さだが、今の私にとっては“乗れた”という一点だけで天国の香りに等しい。
だが、問題は別の場所で猛威を振るっていた。
――猛烈な空腹だ。
極限の緊張が解け、反動で胃袋が暴れはじめる。
車内販売はすでに終了。自販機には甘い飲み物しかない。
遠くの車両には、あの彼女がいる。
快適な禁煙個室で休んでいるだろうか、とぼんやり思う。
観念して、足元のボストンバッグを開いた。
工場のおばちゃん――トヨさんが「持っていき!」と押しつけてきた風呂敷包みが入っている。
正直、商談の場にこんなものを持ち歩くのは抵抗があった。
が、今はそんなことを言っていられない。
結び目を解き、タッパーの蓋を開けた瞬間――個室の空気が変わった。
「……やば」
古漬けのタクアンの香り。
それはタバコの残り香を一瞬で上書きするほど強烈だった。
さらに、子どもの頭ほどある巨大なおにぎりが三つ。
思わず顔を覆う。
換気扇を強にしようと身を乗り出した、その時。
「……ぷっ」
ドアの隙間から、小さな笑い声が流れ込んだ。
顔を上げると、そこに彼女がいた。
デッキへ移動する途中、偶然この個室の前を通りかかったらしい。
眼鏡の奥の瞳が震える。笑いを堪えきれない様子だ。
「わ、笑うなよ……!」
耳まで熱くなり、タッパーを抱えて隠す。
「違うんだ、これは俺の趣味じゃない! 工場のパートさんが……!」
「ご、ごめんなさい……ふふ……っ」
彼女は口元を押さえ、肩まで震わせながら言った。
「すごい……破壊力……。タバコの匂い、全部消えてます」
「うるさい! 男には……断れない時があるんだよ!」
わけのわからない言い訳を口走りつつ、おにぎりを一つつかむ。
一口かじると、具材が喧嘩しそうなほどぎっしりで――塩辛い。
そして、涙が出そうなくらい美味い。
ふと顔を上げると、彼女が真剣な表情でおにぎりを見つめていた。
静寂の中、彼女の腹が「ぐう」と鳴る。
「……食うか? タバコ臭い部屋だけど」
思わず差し出す。
彼女は迷うように目を伏せ、それから小さく頷いた。
「……共犯者ですから。証拠隠滅、手伝います」
そう言うと、ヒールを脱ぎ、タバコの匂いも気にせずベッドの端に腰を下ろした。
巨大なおにぎりを両手で包み込む姿は、どこか小動物のようだ。
一口、また一口。
タクアンをぽりぽり齧りながら、彼女の表情が、ようやくほころぶ。
「……笑って、ごめんなさい」
「ん?」
「これ……笑っちゃダメなやつだ」
彼女は口元に米粒をつけたまま、真顔で続けた。
「あなた、愛されてますね」
胸の奥が、タクアンよりもずっとあたたかく満たされていく。
恥ずかしさも、情けなさも、彼女のその一言できれいに洗い流されたようだった。
二人で食べ終えるころには、個室に不思議な生活感が宿っていた。
彼女は丁寧に口を拭き、ひと呼吸置いて言う。
「明日の朝、大事な面会があります。……失敗したら、今よりもっと苦しくなるかもしれません」
「俺もだ。大口契約がある。失敗したら工場が持たない」
「……お互い、負けられませんね」
彼女は小さく笑い、自分の個室へ戻っていった。
残された個室には、微かなタクアンの匂いが残っていた。
それはもう、不快でも恥ずかしいものでもなかった。
壁にもたれ、目を閉じる。
遠くの車両に、同じ揺れを感じている人がいる。
その事実だけで、心が少し軽くなった。




