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【BABYLON】君の隣で息をする

 一分近く鳴り続けていたアラームを止め、伊吹は身体を起こして大きく伸びをした。数日前に三月に入ったものの、まだ冬の余韻が色濃く残っており、今日も8℃までしか上がらないらしい。ジャケットではなく、まだコートを着て出た方がいいかと考えながら眼鏡をかけると、急に視界が開けて見えた。コンタクトや眼鏡で矯正しづらい伊吹の目は、裸眼だと視力が0.2ほどしかない。

 パジャマのままリビングまで歩き、母親の姿を探したが、外出しているのか気配がなかった。代わりに父親がテーブルについているのをみとめると、伊吹はそちらに視線を送ることなく、声だけで挨拶をした。


「おはようございます」

「ああ、もう昼だがな」


 相変わらずの返答に肩を竦め、そのまま洗面所へと入っていく。眼鏡を外し、ぼやけた世界の中で顔を洗った。

 今日はBABYLONのレギュラー番組の収録一本で、夕方から観覧客を入れることを考えると、家を出るのは三時過ぎでもよかった。だが、父親の昌海が休みとなると、下手をするとまた口論になりかねない。昌海と会話もなく、食事さえ一緒に摂らなくなったのは、もう七年も前からだ。いまさら家族ごっこなどしたくない伊吹は、さっさと支度を整えて出掛けてしまおうと、蛇口をぎゅっと締めてから自室へ戻る。


 アイドルの持ち物とは、意外にシンプルで、財布、スマホ、ハンカチティッシュの他には、リップくらいしか必要ない。ゲストを知らされないバラエティのため、台本も必要最低限のことしか書かれておらず、ゆえにマネージャーの増田も「楽屋に来てからざっと読めばいい」と、事前にメンバーに手渡さなくなっていた。

 自尊心も美意識も強すぎる佳樹は、いつも若い女子並みの手鏡や、メイク用品などを持ち歩いているようだが、自分にはそこまで必要ないと思っている。身支度はものの五分くらいで済み、あとは再び洗面所で髪型を直そうと室内を歩いた。そのタイミングでまた父親から声をかけられる。


「何も食べないのか」

「ええ。外で買います」

「母さんがグラタンを作っていたようだったが」


 そう言われて冷蔵庫を開けると、ラップがかかったグラタン皿の上に「伊吹へ」と付箋がついていた。せっかく用意してくれた昼食をどうしようか迷ったが、伊吹は小さく首を振って冷蔵庫のドアを閉める。


「帰宅後にいただきます」

「そうか」


 昌海との会話はお互い一言ずつで、長くは続かない。今日も念入りに前髪を上げ、仕上げにスプレーで固めた。もっとも、収録の前にはメイクがあるので、髪型もその時スタッフに直してもらえばいいのだが、BABYLONの土屋伊吹だとばれず、そのうえ低身長なのを人に見られたくない。そんな気持ちが働くのだった。


「では、行ってきます」


 また声を掛けただけですり抜けようとした、伊吹の手首を昌海が掴んだ。驚いて視線を下げると、久しぶりに父親と目があったような気がした。


「少し話せないか」

「これから仕事なんです」

「今日は夕方からだろう。母さんに聞いた」

「……メンバーと約束をしているので、数分くらいでしたら大丈夫です」


 昌海に隣に座るよう促され、伊吹は鼻から少しずつ息を吐いた。メンバーとの約束とは、もちろん早く切り上げたいがための嘘だ。


「伊吹、お前ももう二十歳だ。大きくなった。そろそろ考え直してくれないか」

「またその話ですか。俺は今の活動に愛着があります。引退など考えていません」

「アイドルなど、もって三十までだろう。すぐにやめろとは言わん。役者の仕事も受けて、世間に評価されるようになったら、グループを脱退するんだ」

「……亮くんを紹介したじゃないですか。あなたも彼を気に入っていた。そして、亮くん自身も芝居が好きだとインタビューにも答えています。俺じゃなきゃいけない理由はなんですか? 好きでもないことを無理にやれと?」

「ああ、私のもとに生まれるとはそういうことだ」


 父は何もわかっていないと、伊吹は思った。伊吹が幼稚園の年長のとき、学芸会で王子の役をやった。当時映画監督として成功し始めていた昌海は大層喜び、さっそく伊吹を劇団に入れる。はじめは演じることの楽しさ、それを磨いていく喜びを感じたものの、いつもレッスンを見に来る昌海に褒められる日はなかった。

 数年後に劇団をやめ、伊吹は普通の小学生として学校生活を送っていた。だが、昌海はいつか伊吹を映画俳優にしてみせる、自分の作品の主演を任せるという野望を捨てず、親子仲はどんどん険悪になっていった。


 伊吹は、家で父親と顔を合わせたくなくて、夜遅くまで友達の家で過ごしたり、学業に専念したりした。だが中学に入ると、クラスメイトの薦めでミッシングのアイドルという選択肢を見つけ、入所早々に新規グループのメンバーとして抜擢される。

 これで父と離れられる、何より歌って踊ることの楽しみを見出し、ファンのためにがんばろうと思ったその気持ちは、長い「ミッシングキッズ」時代に翻弄される。父親とは勘当状態になったが、たまにこうして小言を吐き出されたり、役者になれと説得されたりする。まだ諦めてないのか、と伊吹はうんざりした顔を見せた。


「俺とあなたは別の人間です。俺はあなたの持ち物じゃない。自分のやるべきことは、自分で決めます」


 バッグを持って立ち上がり、コートを羽織った。そのまま昌海には目もくれず、水分すら取らずに玄関へ向かう。追いかけてきたのは、昌海の呪いのような言葉だった。


「早く気づくといい。お前の血がそれを許さないということに」


 最後の方はドアが閉じる音で不明瞭だったが、伊吹は怒りと恐怖に震えた。早く歩き出さなければ、父が外まで出てくるかもしれない、そんな不安で胸がいっぱいになったが、すぐには身体が動かなかった。

 思えば、劇団にいた頃からずっと父親に呪いをかけられていた。駆け出し映画監督の息子。保証された才能。伊吹は自分の意思で、自分をも喜ばせるためにBABYLONの一員としてタレント活動を続けている。だがきっと、それは父親への反発で、本当はただの親子喧嘩にメンバーを巻き込んでいるだけなのではないか。そんな不安が脳内を占めた。


「ほんと、情けないな……」


 やっとのことでそれだけ呟き、伊吹は平静を装って仕事に向かう。メンバーの顔が次々浮かび、最後に玲司の笑顔を思い出したところで、涙が頬を伝った。

 玲司に会いたい。会いたい。突き動かされるように走り出し、地面を蹴った。近隣に植わっている桜のつぼみはまだ開きそうになく、みな開花宣言を心待ちにしている。




 集合時間まで二時間も早く着いた楽屋には、まだ誰もいないと思っていた。マネージャーやメイク、スタイリストの姿もなく、室内はしんと静まり返っている。

 ドアが開く音に顔を上げた玲司は、伊吹をみとめると嬉しそうに頬を緩めた。つられて自分も少し笑い、伊吹は玲司を目指して歩を進める。


「玲司くん。早いですね」

「伊吹もじゃん。あと二時間、誰も来ないと思った」


 夏の玲司の忙しさは異常だった。Cruelの雨宮りくとのW主演ドラマ『学園ロジック』の撮影やその宣伝目的でのテレビ出演や取材、BABYLONのレギュラー番組の収録、その合間を縫ってコンサートの練習、本番など、よく一人で乗り切ったと思う。コンサートではファンのみんなが求める「王子様」そのもので、さすが玲司だと感心した。みつるが提案したオタ芸は予想をはるかに上回る人気ぶりで、年明けの冬コンでも披露したのが記憶に新しい。『学園ロジック』はすでに続編の制作が決定しているが、夏にその撮影を終えて玲司がBABYLONに戻ってきたとき、やっと玲司を返してもらったと思った。もちろん本人には言えないが、玲司は伊吹にとって、信頼よりも依存が上回る存在だと、自覚せずにはいられなかった。


「……伊吹?」


 隣に腰を下ろすでもなく、ただじっと自分を見つめている伊吹を不思議に思い、玲司が控えめに声をかけた。すると伊吹は、ジェスチャーで玲司に立つよう指示し、半歩ほど後ずさる。


「玲司くん、立ってください」

「えっ、なに?」


 ひとまず伊吹の言う通り立ち上がった玲司が、今度は伊吹を見下ろす番になる。伊吹は玲司を見上げ、そして一言断ることもなく、そっとその身体に抱きついた。


「えっ、えっ、伊吹どうしたの」

「ちょっと黙っててくれますか」


 玲司の胸に顔をうずめた伊吹が、曇った声で言う。目線や手のやり場に困る玲司だが、怒られたくなくて声には出さずにうろたえている。


「玲司くん……」


 返事をした方がいいのか、それともまだ黙っていた方がいいのか、わからないから伊吹の髪をそっと撫でた。伊吹はびくっと肩を揺らし、だがそれがいやではないようで、玲司の手に頭を押し付けるような仕草をする。


「伊吹、大丈夫だよ。俺がいるから」

「玲司くんがいないとBABYLONがまとまらなくて困ります」

「そういう意味じゃなくて、伊吹のそばにいるよってこと。話したくないなら今は訊かない。でも、伊吹が苦しんでるなら、力になりたい。いや、なれる。だから俺を見て」


 恥ずかしくて顔が上げられない伊吹の顎に指をかけ、玲司は軽く力を入れて上向かせた。初めてこんな至近距離で見つめ合うと、玲司の瑠璃色と茜色を合わせたような、鮮やかに煌めく瞳と出会い、伊吹はドキドキと心臓を高鳴らせる。


「伊吹、誕生日おめでとう」

「あ、ありがとうございます……」


 さっきは父親を「誕生日にまでこの男は」と軽蔑した。中学の時にBABYLONのメンバーに抜擢されたはいいが、CDデビューまでの道のりが長く、苦労を重ねたのは言うまでもない。BABYLONの全盛期はキッズ時代で、なのにCDデビューという契約をしていないことによって、メンバーが手にする報酬は微々たるものだった。デビュー以前、それについても父親には散々苦言を呈されたが、八年目のBABYLONは何やら盛り返しつつある。


 誕生日など、誰にも祝われなくていいと思っていた。だが伊吹は、玲司にたった一言もらっただけで、自分は生まれてよかったのだと認められた。それまで所在なげに下ろされていた玲司の腕が、しっかりと伊吹を抱きしめる。伊吹は玲司の心音を聴き、自然と微笑んでいる自分に気づいて俯いた。


「無理しない。焦らず目の前の仕事をこなす。そう約束したでしょ」

「随分前の話ですね」


 なかなかデビューさせてもらえず、崩壊しかかっていたBABYLONに、玲司がそんな助言をしたのは、いつの頃だっただろうか。はっきりとは思い出せないが、それがメンバーにとって少なからず救いになったことを、伊吹はよく覚えていた。


「なんか最近、番組の視聴率も伸びてるらしいしさ。俺たちは俺たちらしく、伊吹は無理せず、ずっと一緒にいようよ」


 玲司のやさしい声が、すっと脳内に入ってくる。伊吹は玲司の体温を感じながら、何か返さなければと口を開いた。


「れい……」

「うぃっす~! はよ~っ! もう誰か来てんじゃん?」


 伊吹のそれを遮るようにして楽屋内に入ってきたのは、なぜか上機嫌の亮だった。そして亮は、玲司が伊吹を抱きしめている現場に遭遇すると、同じ表情のままドアの向こうに消えていく。


「……お邪魔しました~っ!」

「ちょ、ちょっとまっちゃん! 違……いや、違わない? とにかく、なんでもないから!」

「時間潰して来ますんで、ごゆっくり~!」

「まっちゃあん!」


 玲司の悲鳴が室内に響き渡る。伊吹は玲司の腕からすり抜けると、その必死な顔を見て、くすくすと笑った。真面目で王子様で、でもどこか抜けている正統派アイドル・BABYLONの菊川玲司。

 玲司にのしかかった苦難は伊吹の想像以上だろうに、それでも年下のメンバーに寄り添うその姿に心惹かれていた。伊吹は玲司の前に立ったまま、今度はそっと両手を握った。亮にどう思われたか動揺しているものの、玲司は再び真摯に伊吹に向き直って、小さな頭に手を置く。


「……ねぇ伊吹、また痩せた? ちゃんと食べてる?」

「あ……、今日はまだ何も」

「も~っ、自己管理怠るの禁止! 『チューリップ』行くよ!」

「えっ、でも」

「いいから、リーダーに任せておきなさい」


 玲司が提案したのは、このテレビ局の五階にある喫茶店だ。ここのクリームソーダは絶品で、大物芸能人が出入りすることもあるらしい。

 玲司に心配をかけて申し訳ないと思いつつも、大切にされてることがわかって嬉しかった。伊吹は最後に玲司の首に抱き着き、父親との確執を相談出来る日を願った。


「じゃあ、お願いします」

「まっちゃんもいるかもね」

「ふふ、亮くんをどうやってからかいましょうか」


 伊吹が笑う。玲司が笑い返す。ふたりのささやかな幸せは続き、きっといつか恋の花が咲くことだろう。

 財布とスマホだけ持って手招きをする玲司を、伊吹は追いかける。手を伸ばしたら触れられる距離にいるその人に、相応しい強い心を持ったら、この気持ちを打ち明けよう。それがまだ、恋だの愛だのと呼ぶには幼すぎるとしても。

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