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第七節「シャドウ・ヴェイル」

 広間に血の匂いが満ちていた。砕けた棺の破片と飛び散った血が、かつて荘厳だった神殿を地獄の景色に変えている。

 リューは剣を杖代わりに膝を支えながら、必死に立ち上がろうとしていた。視界は霞み、膝は震え、剣を握る手は血に濡れて滑っていた。

 ザックは全身傷だらけで、肋骨の折れる鈍い音がするたびに顔を歪めたが、それでも拳を握り続けていた。カイは膝をつき、息も絶え絶えで、傍らのメギに肩を支えられていた。アリスは矢を握ったまま壁にもたれ、蒼白な顔をして動かない。

 その対極に立つアキレスには、傷ひとつなかった。

 黄金の鎧を纏い、悠然と立つ姿は、まるで神話の英雄が甦ったかのようだった。だが、その眼差しは凍りつくように冷たく、不敵な笑みが口元を歪めている。

 「剣でも、拳でも、弓でも、魔法でも……何でも構わぬ」

 その声は静かで、しかし広間全体を震わせる力を持っていた。

 ヨハンは仲間に治癒の魔法を施しながら、その言葉を心の中で繰り返した。

 「剣でも、拳でも、弓でも、魔法でも……」

 なぜかそこに「槍」が含まれていないことに、強い違和感を覚えた。

 これまで彼は数え切れぬほどの患者と病に向き合ってきた。原因がわからなくても、必ず思考を重ね、考え抜いた先に答えを見つけてきた。医師として、諦めることだけは許されなかった。

 今も同じだ――ここで考えることをやめれば、全員が終わる。

 「……槍、か」

 ヨハンは視線を魔剣グラムに向けた。

 「グラム。槍でも、やつを貫けないのか?」

 剣はしばし沈黙した。まるで過去を思い出すかのように、低い声で答えた。

 「……あやつと刃を交えた時、私は斬ることができなかった。だが、槍にもよる。もしグングニルであれば――神々の槍であれば、奴の無敵の理をも貫くだろう」

 「グングニル……」ヨハンは呟いた。

 その名を口にした瞬間、血の匂いに満ちた広間に、ほんの一筋の光が射したように思えた。

 ヨハンは立ち上がり、強い声で叫んだ。

 「みな! 退却する!」

 「な、なに……!?」ザックが目を見開き、血走った瞳で睨んだ。「まだだ! まだ戦える!」

 「馬鹿を言うな!」リューが声を張った。「このままじゃ本当に全滅だ!」

 だがザックは唇を噛みしめ、なお拳を握り続けた。「ここで倒せなきゃ……ロサンジェラが……!」

 「違う!」ヨハンの声が響いた。「ここで死ねば、ロサンジェラを救う道は永遠に閉ざされる! 勝機はまだある――だからこそ退くんだ!」

 ヨハンはカイに向き直り、鋭く言った。

 「カイくん! メギの力で全員を包めるか!」

 カイは驚愕の表情で息を呑んだが、やがて強く頷いた。

 「やってみます! メギ、できるか!」

 メギは静かに一歩前に出た。

 「はい。私の“シャドウ・ヴェイル(影の帳)”で皆様を包み、この場から退避させることが可能です。ただ……少しばかり、心地よい眠気が伴います」

 その声は優しく、まるで子を寝かしつける母のようだった。

 メギが床に掌をかざすと、黒い影が波紋のように広がっていった。冷たい闇ではなく、どこか温かな夜の帳。仲間たちの足元から立ちのぼり、柔らかく身体を包み込んでいく。

 「……安心してください。影は痛みを伴いません。すべてを抱きしめ、別の場所へと導きます」

 リューは剣を杖にしながら、かすかに笑った。「頼んだ……」

 アリスは感情のない瞳でアキレスを睨みつけ、「……クズめ」とだけ呟いた。

 カイは震える手で仲間を支えながら、必死に影へ身を任せた。

 ザックは最後まで抵抗した。「俺は……まだ……!」

 だが影は優しくその身体を包み、ゆっくりと沈めていった。

 影に飲み込まれた瞬間、全員の身体はふっと軽くなり、まるで水面に浮かぶような感覚に包まれた。意識が霞み、重力が消える。次の瞬間には、全員の姿は神殿から掻き消えていた。

 広間に残ったのは、アキレスただ一人。

 黄金の鎧をまとい、彼はゆっくりと口元を歪める。

 「逃げるか……よい。だが次に会うときは、永遠に留めてやろう」

 アキレスは崩れた棺の欠片に目を落とし、倒れた亡骸に向けて優しく語りかけた。

 「新しい仲間が増えるのは、もうすぐだ。お前たちも喜んでくれるだろう?」

 その声は幸福そのものであった。しかし、広間を覆う気配は、凍てつくような狂気と恐怖だった。


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