第二節「月下の告げ人」
ロサンジェラを診てから数日後、ヨハンはハイリオスへ戻っていた。
蒼穹賢として名を馳せたこの街でも、彼の胸に広がるのは不安だった。あの不気味な痣は病でも怪我でもない。魔法治療も一切効かず、ただそこに“存在している”だけだ。長年の経験で得た医師としての勘が告げていた――あれは何か、もっと根源的な異質なものだと。
彼は研究院に籠り、古文書を片っ端から漁った。年代は数百年から千年を超えるものまで、医療の記録から伝承に至るまで。やがて幾つかの記述にたどり着く。
――首の後ろに奇妙なあざが浮かび、原因不明の衰弱により命を落とした若い女性たち。
数は少ない。だが、確かに残されていた。どれも症状は酷似しており、数週間から数か月のうちに死に至ったという。
「……やはり、前例はあるのか」
ヨハンは手にした羊皮紙を握りしめる。だが記録は断片的で、原因も治療法も一切記されていない。共通点といえば「若い女性」であること、そして、愛する者を失った直後に発症する例が多い、ということくらいだった。
それ以上の法則性は見つからない。医師として体系だった因果を求める彼にとって、それは苛立ちと焦燥を募らせるだけだった。
夜更け、机に積み重ねた古書に囲まれながら、ヨハンはふと窓の外に目をやった。月光が静かに街を照らし、白銀の輪郭を石畳に描き出している。
「……手掛かりが、見えん」
思わず吐き出した独り言。
その瞬間だった。
「原因はわかったのか?」
低く響く声が、夜気を震わせた。
ヨハンは反射的に顔を上げた。窓辺、月明かりを背にして佇む影がある。黒衣の男――ザギ。
その存在を目にしても、不思議と驚きはなかった。ヨハンにとってザギは昔から説明のつかぬ存在だったし、むしろ彼が姿を現したことで「やはりか」と思う方が自然だった。
そもそもヨハンが医療魔法の道に踏み込むきっかけを与えたのは、他ならぬこの男だった。
「……君は、なぜロサンジェラのことを知っている?」
問いながらも、答えを求めてはいなかった。ザギに関しては、理由を追うこと自体が無意味だと知っていたからだ。
ザギは窓枠に片手をかけ、静かに言葉を紡いだ。
「おそらく、いや――間違いなく、アキレスの呪いだ。いや、愛の残滓と言うべきかもしれんな」
「……アキレス?」
ヨハンは眉をひそめる。
「呪い? 病原体か……ウィルスのようなものなのか?」
ザギは一瞬だけ笑みを浮かべた。
「ウィルス……まあ、そうだな。魂に取り憑くウィルスのようなものだ。だが正体は神魔――かつての英雄にして、いまや呪いそのものとなった存在だ」
「神魔……」
ヨハンの理性は否定しようとした。そんなものは伝説の中の話だ、と。だが、胸の奥で別の声が囁いていた。――やはりそうか、と。
彼は医師として、この世界の病をずっと診てきた。そのすべてに、不可解な規則性を感じていた。病原は自然に発生したものではなく、誰かが設計したかのように体系立てられている。まるでこの世界そのものが「模倣」され、病まで再現されているかのように。
ザギは月光の下で、さらに告げた。
「ヨハン、お前は賢い。だからもう隠す段階ではないと判断した。今、リューたちはその神魔と戦っている。この世界ではない場所でな」
その言葉に、ヨハンの胸に戦慄が走った。
――リューたちが生きている? しかも、この世界ではない場所で戦っている?
ザギは淡々と、この世界の秘密を語り出した。ここが「ノア」と呼ばれる神魔と呼ばれる存在に唯一対抗できる魔法を研究するための模倣世界であること。そしてリューたちは今まさに、その神魔と対峙しているのだと。
驚きはあった。だが同時に、妙な納得感もあった。
ヨハンは以前から、この世界がどこか「不自然」であることに気づいていた。病も、魔法も、人の生死ですら、必ずどこかで“誰かの意図”を感じさせた。ならば、ここが模倣世界だと言われても、感覚的には理解できてしまうのだ。
しばしの沈黙ののち、ヨハンは問うた。
「……それで、この“アキレスの呪い”を解くにはどうすればいい?」
その声は震えていなかった。医師として、そして一人の人間として――彼は答えを必要としていた。




