第十一節 炎の神の記憶・後編
火を託したその夜から、世界は静かに変わり始めた。
ロキは当初、ただ人々のために火を守る青年にすぎなかった。夜ごと火を分け与え、子どもに温もりを届け、飢えた者には煮えた鍋を差し出した。彼のまわりには笑いが集まり、私は誇らしく思った。自らの禁忌は正しかったのだ、と。
しかし、火は甘美で危うい。人の手に渡った瞬間から、それは力であり、支配の象徴となる。
年月が過ぎ、ロキは村の中心に立つようになった。誰もが彼を頼り、彼の言葉を律とした。やがて彼は火の掟を定めた。火を借りるには供物を捧げよ。火を粗末に扱えば村を追放せよ。最初は皆、それを正しいと受け入れた。だが掟はしだいに苛烈さを増し、彼の意に背く者は「火の罪人」として裁かれるようになった。
焔の前に柱を立て、罪人を縛り、炎の中へと投げ込む——火が命を救うはずの場で、火は人を焼くために使われた。私は何度もその場に立ち会った。燃え上がる火光は、かつて彼が涙を流して見上げた橙の光と同じだった。だが今は、歓声と恐怖の入り混じる中で、火は人を選別する力へと変わっていた。
ある夜、私は彼に言った。
「火は分け合うためのものだ。奪うためにあるのではない」
彼は王冠に似た飾りを頭にのせ、炎を背にして私を見下ろした。
「あなたが授けた火で俺は王になった。ならば俺の裁きこそが火の意志だ」
その瞬間、私は悟った。——私の選択は人を救ったと同時に、人を歪めたのだと。
だが、諦めることはできなかった。私は彼に幾度も諫言した。火を独占すれば呪いとなる、火は分け合ってこそ生きる、と。しかし彼の心はすでに炎のように揺らぎ、燃え尽きる寸前だった。
やがてロキは恐れを抱いたのだろう。彼は薄々気づいていた。自分を諌めるこの“老人”がただの人ではないことを。ある日、彼は天に向かって祈るふりをしながら、こう叫んだ。
「火を人に与えたのは、この男です!」
密告は雷よりも速く天上に届いた。神々の怒りは烈火のごとく燃え上がり、ゼウス自らが断罪のために現れた。
「プロメテウス。お前は神の権能を盗み、人間に授けた。その結果、人は驕り、同胞を焼くに至った。これはお前の罪だ」
私は抗わなかった。抗う資格もなかった。確かに私は禁忌を犯した。だが心のどこかで信じてもいた。火を見上げたときの人々の涙、あの純粋な歓喜は真実だったのだと。
断罪は苛烈だった。私は岩に鎖で縛られ、臓腑を日々鷲についばまれ、夜ごと再生する永劫の苦痛を負った。救済者から一転して、私は罪人となった。
だが罰のただ中で、私は考え続けた。
——なぜ火は人を救い、そして同じ火が人を焼くのか。
——人に寄り添うとは、正しかったのか。
胸の奥には一片の誇りも残っていた。あの夜、初めて橙の光を仰いだ人々の涙、それだけは揺るがない。だが同時に、ロキが私を売り渡したその夜の炎は、私に初めて「憎い」と思わせた炎でもあった。
私は今も答えを探している。火は祝福なのか、それとも呪いなのか。
人間に託した選択が正しかったのか、それとも——。
痛みは最初こそ魂を裂いた。だが時が経つにつれ、感覚は鈍化し、肉が裂かれても何も感じなくなる。ただ、その虚無の中で、ふと憎しみだけが湧き上がる。
——人に寄り添った自分が愚かだったのか。
——いや、違う。私を神に差し出したロキがすべての元凶だ。
——いや、それすらも違う。人間そのものが悪だったのだ。
憎しみは次第に形を変え、やがてただひとつの思考に収束した。
断罪する。私が受け続けたこの終わりなき痛みの分、それ以上の苦しみを人類に課す。
火で歪んだ人類を、火によって無に返す。
——もう、それしか思考することができなくなった。




