第十節「炎の神の記憶」
神々の中でいちばん慈悲深く、人にやさしいのは誰かと神々に問えば、誰もが口を揃えて「プロメテウス」と答えた。それは私の誇りであり、存在理由でもあった。神が作った人間は、あまりにも脆く弱い存在だったからだ。
地上の温度が少し上がれば息絶え、少し下がっても凍えて死ぬ。乾きは皮膚を裂き、風は骨を冷やし、闇は心を砕いた。多くの神々は彼らを“道具”としか見なかった。力を維持するために必要な部品、形ばかりの燃料。人間はそのために造られた、と。だが私は違った。弱きものに寄り添うこと、ただそれだけが私の在り方だった。
だから、何度も人に模して暮らした。粗末な衣をまとい、固い根を噛み、火のない夜に肩を寄せて眠った。なぜこれほど弱い存在が、それでも地上に留まり続けようとするのか。なぜその瞳だけは、ときに鋼よりも固く光るのか。私は知りたかったのだ。
ある時代、上位の神どうしの戦いが起こり、トーバ火山が割れた。天は灰で覆われ、太陽は薄い円盤に変わり、冷たい季節が長く続いた。人類は千にも満たぬ数へと減り、絶滅寸前に追い込まれた。私はその只中に人間として身を置いた。彼らがこの危機をどう乗り越えるのか、あるいは静かに途絶えるのか——見届けるために。
その時、人々は初めて“集団”になった。ひとりでは死ぬ。二人でも、運が悪ければ死ぬ。十人、二十人、数十人と寄り添い、役割を分け、獲物を分け、悲しみを分け合った。それでも倒れていく者は後を絶たなかった。人が増えたところで、空の灰は晴れず、地の霜も解けなかった。
私はひとりの青年と深く関わった。正確に言えば、互いが互いを必要としていた。彼は狩りの帰りに私へ骨髄の詰まった骨を分け、私は彼が熱に倒れた夜に薬草を煎じて飲ませた。彼は火を知らなかった。焔の揺らぎを夢でしか知らず、ただ憧れのように語っていた。ある晩、吹きすさぶ風に紛れて、私は囁いた。
「お前だけは助けられる」
彼は荒れた唇で笑い、答えた。
「自分のことは良い。周りが助かる方法を見つけてくれ」
その言葉に胸を刺され、私は沈黙した。上位の神々は人間を「失敗作」と認定し、新たな存在をつくろうとしていた。神々の間には不文律があった——火の制御は神の特権、人間には決して与えてはならぬ、と。火は世界の心臓。熱は力であり、秩序を生み、やがて神の領域に触れる。だからこそ禁忌とされた。だが、その時の私はもう、自分の指先を止められなかった。
火は、飢えと寒さをしのぐ唯一の術だった。飢えは人を獣にし、寒さは声を奪う。だが火は光だ。光は希望だ。互いの顔を確かめ、次の朝へ生き延びるという希望。
私は夜の縁で青年に火を教えた。
私は木の棒を両掌で挟み、板の窪みに立てる。手を滑らせ、呼吸を合わせ、圧と速度を探った。やがて棒の先が焦げ、蔦に熱が移り、菌核が煙を上げる。青年の瞳が闇の中で見開かれた。私は煙を両手で包み、そっと息を吹き込む。橙の光が生まれ、世界がほんの少し明るくなった。
「これは……何だ」
彼の声は震えていた。恐怖ではなく、希望に触れた震えだった。
「名は、火。扱いを誤ればすべてを喰う。だから制御を学べ」
青年は頷き、震える手で枝を置いた。
やがて他の者たちも寄ってきた。母は子に粥を温め、泣き声が笑いに変わった。火は食を柔らげ、病を遠ざけ、闇に輪郭を与えた。青年は囲炉裏の前で長く黙し、私を見て言った。
「これはお前だけのものにはしない」
「それが約束だ」
彼はうなずいた。火は渡され、託された。独占すれば呪いとなり、分け合えば祝福となる。私は火打石の置き場所、獣道の見分け方、土器を焼く手順を伝えた。彼は繰り返し挑み、手の皮を裂き、血を滲ませながらも、ついに自分の手で火を起こした。
その人間の名は——ロキ。確かにそう呼ばれていたはずだ。よく笑い、よく譲り、火床から遠い者に最初の一杯を分ける青年だった。私はその名を胸に刻んだ。禁忌を破った夜の証人として。
夜明け、空の灰の幕の向こうにわずかな白が差し、橙が滲んだ。二つの光が重なるのを久しく見ていなかった。夜が朝に解けていく。私は祈った。——この火が彼らを次の季節へ連れて行くように。
だがその時、黒い影が輪を描いた。鷲だと思った。いや、鷲の姿をした裁きだった。私は理解していた。神の不文律を破った者に下る、遅れなき罰。臓腑を啄まれる永劫の刑。私は目を逸らさなかった。背を伸ばし、足を大地に根ざし、怒りではなく覚悟を胸に置いた。
——火は、もう人の手の中にある。
私が罰を受けても、火は消えない。私が消えても、火は残る。火は名であり、約束であり、祈りだ。




