第九節 氷の女王の旅立ち
雪雲の切れ間から差し込む細い光の下、ザギは屋上に降り立つと同時に言った。
「――プルートは?」
感情を込めぬ声音。問いかけというよりも、確認のための言葉。
アリスは眉を寄せて答える。
「……塔の攻防で、カミューに利用された。今は結晶としての力を失っている」
声には悔恨が混じっていた。プルートは彼女の一族にとって象徴であり、王位継承を裏付ける唯一の証。失われた力は、国をより不安定にするだろう。
だがザギは一切動じず、冷徹に告げる。
「案内しろ」
ただ一言。それ以上の説明も理由もなく。
地下宝物庫へ至る階段を降りる間、アリスの胸には重苦しい予感が渦巻いていた。
そこは幾重もの結界と氷の封印で守られた場所。氷の女王と呼ばれる彼女ですら、幼き頃から「軽々しく触れてはならない」と教えられてきた聖域。
封印を解くと、中央に眠るのは――かつて王権の象徴であった白銀の結晶、プルート。
ザギが無言で手を伸ばす。
その瞬間、黒い光が迸った。
封じられていたはずの結晶は、彼の掌に触れた途端、まるで脈打つように震え、闇の輝きを放ち始める。
「……これは……!」
アリスの瞳が驚愕に見開かれる。
ただの石に過ぎないはずだったプルートが、彼の手によって甦るなどありえない。
ザギは結晶から手を離さぬまま、淡々と告げた。
「アリス。お前が行け」
「…どこへ!?…何を言っている?」
「国のことは俺が調整する。お前はここを離れろ」
唐突な言葉にアリスは声を荒げた。
「馬鹿なことを! 国は分裂しかかっている。私がいなければ、均衡は崩れる。そんな時に――」
必死の反論。だがザギは表情を変えずに首を振る。
「問題ない。お前が消えるわけではない」
「……どういう意味だ」
「姿も声も、意志も残る。ただ――お前の魂だけを移す」
ザギの声音は揺るぎない。まるで当然の理を述べるかのように。
アリスの喉が詰まる。
「魂……? 移す? どこへ」
「リューたちのいる場所だ」
「リュー……!? リューは生きているのか!」
押し殺していた感情が、一気に堰を切ったように溢れた。
ザギは短く答える。
「ゼノンが待っている。そこで全てを問え。お前の力が必要だ」
その時、ザギは誰かに語りかけるように虚空へ声を投げた。
「――ゼノン。プルートの力を用いて、アリスをそちらへ送る」
次の瞬間、宝物庫に別の声が響いた。空気を震わせ、遠くから届くような声。
『ザギ!? お前が来るのではなかったのか!』
ゼノンの声だ。アリスは息を呑む。
ザギは微動だにせず答える。
「こちらの世界でもダークエネルギーが得られるとわかった。現時点で俺が戻る必要は薄い。戦力を送った方が合理的だ」
『……無理はするな』
「問題ない」
冷然と、そう言い切った。
プルートの黒光はさらに強さを増し、宝物庫全体が脈動する。氷の壁は軋み、天井から雪片が舞い散る。
アリスの足元にまで光の紋様が走り、身体を絡め取るように広がっていく。
「待て、私はまだ――」
言いかけたその瞬間、眩い光が視界を塗り潰した。
最後に脳裏をよぎったのは、ただ一つ。
「……リュー……」
アリスが目を閉じ、再び開けたとき――そこは宝物庫ではなかった。
見たこともない、機械仕掛けの部屋。鉄と光の管に囲まれた空間。
冷たい鋼の匂いと、微かに震える装置の鼓動。
そして、目の前には。
「……ゼノン……」
久しく忘れていた師の姿がそこにあった。
ゼノンは静かに頷く。
「よく来たな、アリス」
その直後、研究所の扉が開き、リューたちが戻ってきた。
ゼノンの隣に立つアリスを見て、彼らは言葉を失った。
誰も予期していなかった再会が、そこにあった。




