第八節 影の再来
リューが姿を消してから、すでに数か月が経過していた。
アリスは帰国し、日々政治的な対応に追われていた。
かつては「鳥籠から出たい」と願い続けていたはずの自分が、結局はまた同じ鳥籠に閉じ込められている――そう思うと、心の奥底から冷たい諦めが広がった。
「プルートを守れ」
あの影の者――ザギの言葉が、ふいに脳裏に蘇る。
彼は自分を鳥籠から出した唯一の存在だった。だが皮肉なことに、再び権力としがらみに縛られた今、その言葉は枷のように重く響く。
国内は不安定だった。プルート簒奪をめぐって、叔父派とアリス派の争いは一層激化している。
議場では叔父派の貴族たちが声を荒げ、アリスの治世を「若さと冷徹さゆえの暴挙」と非難する。
一方で、アリス派の側近たちは彼女を氷のごとく冷静に支えながらも、背後で密かに裏切りや駆け引きを繰り返す。
城下の市井にもその影は落ちていた。市場では「叔父こそ正統」と囁く声があれば、別の路地では「氷の女王こそ未来を拓く」と叫ぶ若者たちの声もある。
だがそのどちらも、アリス自身の心を温めることはなかった。
――氷の女王。そう呼ばれても、自分の近親者すら御せない。なんと虚しい肩書だろう。
魔力だけでは政治は動かせない。そんなことは理解している。
けれど、どう熔かせばよいのか答えは見つからなかった。
父、いや先代王のことを思う。
自分の娘を愛する余裕すらなかった男。その姿を、自分が王となった今になってようやく理解できる。
良くも悪くも、父は政治の中で生き、政治の中で死んだ。
剣を握る手の震えを見たことがある。だが、それを弱さと見せたことは一度もなかった。
そして、自分に笑いかける暇も余裕もなかった。
――そうか、自分も同じだ。今の自分もまた、娘に愛情を注ぐ余裕など持ててはいない。
ザギに娘を託したのも、結局は自らの弱さゆえ。唯一の弱点を遠ざけ、安全な場所に置いておきたかった――そういうことだろう。
鬱屈した気分を振り払うように、アリスは久しぶりに城の屋上へ足を向けた。
冬の曇天は低く垂れこめ、雪雲の切れ間からわずかに光が差している。
白い息を吐きながら、彼女は氷の輪を作っては壊し、また作った。
幼いころから何度も繰り返した遊びだ。
手のひらに冷たい感触を受けながら、輪は簡単に砕けて消える。
――あの頃はただの遊びだった。だが今は、自分の不安定な立場そのものを象徴しているように思える。
繰り返し作っては壊れる輪のように、自分の政治基盤もまた脆い。
そして気づけば、無意識のうちにリューと出会ったときのことが脳裏に浮かんでいた。
城下の喧騒も、玉座のざわめきも、ここまでは届かない。
静寂に包まれた屋上で、アリスはふと空を仰いだ。
その瞬間、空気が変わった。
風が止み、音が消える。雪片が宙で凍りついたかのように落下を忘れ、世界がわずかに歪んで見える。
鼓動がひときわ強く響いた。――これは知っている感覚だ。
そして、また影が降りてきた。
黒い影。人の形をしている。
翼も持たないのに、空からゆっくりと舞い降りてくる。
その姿は敵意を含んでいなかった。
胸の奥に、幼いころと同じ感覚が甦る。既視感。
あの頃、退屈にまみれた少女は「このままさらわれてもいい」と思った。
だが今、氷の女王となったアリスの胸を満たしたのは――無邪気な願望ではない。
政治に絡め取られ、逃げ場を失った自分に、再び訪れる「変化」の予感だった。
雪を踏むこともなく、影は静かに、彼女の前に立とうとしていた。




