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第六節:氷の青 その3 

背後に立つ影を認めた瞬間、リューは息を詰めた。

 アリスもゆっくりと振り返る。そこにいたのは、感情の色を一切見せない男――ザギだった。

 「……お前を連れていく、準備をしろ」

 平板な声。その響きには、命令というより、既に決まった事実を告げる冷たさがあった。

 リューは反射的に眉をひそめ、吐き捨てるように言った。

 「……は? 何言ってんだこいつは。行くわけないだろ」

 ザギは瞬きもせず、淡々と問いを返す。

 「ここにお前の居場所があるのか?」

 その目は、拒否という行動そのものが理解不能だと言わんばかりだ。

 リューは口を閉ざし、視線を逸らす。

 そんな二人の間に割って入るように、アリスが口を開いた。

 「私がそうだったように、リューにも選択肢を与えるべきだ」

 ザギはわずかに首を傾ける。

 「選択肢……そんなものが必要なのか、これがゼノンの本当に探していたリュー、エラバレシモノか…」

 「……エルバストル?」

 リューが怪訝そうに眉を寄せる。「何の話だ。俺の名前はリューだ。それ以外はない」

 ザギは小さく息を吐き、言葉を切った。

 アリスは、その隙を逃さず笑みを浮かべた。

 そして、一瞬だが笑うことに戸惑った、今まで笑ったことなどあったのだろうか。


 「エルバストル……悪くない名だ。リュー・エルバストル、これからそう名乗れ。命令だ」

 その声音は無意識に支配の色を帯びていた。王位継承者として育った彼女は、常に命じ、従われることが当たり前の環境にいた。

 「お前は……なんでそんなに偉そうなんだ!」リューの声が鋭く跳ねた。「俺はお前の部下でも奴隷でもない!」

 アリスはわずかに目を見開いた。

 「……お前か」

 その響きは、不思議と胸の奥に心地よい熱を生む。――対等とは、こういうものか。

 「面白い。では、私に勝てたらこの影について行かなくてよいこととする」

 「おい……」

 ザギが低く抗議する。だがアリスは振り返りもせず、涼しい声で言い放った。

 「私が決めたことは覆らない。――リュー、どうだ?」

 リューは数秒、黙ったままアリスの瞳を見返した。そこに宿るのは挑発と、わずかな好奇心。

 逃げれば負けだ。やがて彼は、短く頷いた。

 「いいだろう」

 アリスの唇がゆるむ。

 「決まりだな」

 ザギは肩をすくめ、背を向けた。三人は料理屋を出て、まだ昼下がりの喧騒に満ちる街を進んだ。石畳を踏むたびに、足音が硬く響く。

 道行く人々がちらりと視線を向けるが、ザギは無言のまま歩を進める。アリスは時折リューを横目で見やり、その表情の変化を観察していた。リューは黙り込んでいたが、その歩調に迷いはなかった。

 やがて三人は城壁の大門へとたどり着く。背後に残るのは人声と商いの喧騒、前方には雪をかぶった荒野が広がっていた。

 吐く息は白く、風が頬を刺す。

 「ここでいいだろう」

 ザギが立ち止まった。

 その瞬間、彼の足元から黒い影がじわりと滲み出す。

 それは地面を這い、波紋のように広がり、やがて三人の周囲を円形に囲み込んだ。

 雪の白さを塗り潰し、光を飲み込み、空気を重く変質させる。

 アリスはその変化を肌で感じ、わずかに目を細めた。

 この男は、ただ影を操るだけではない。結界そのものに意志を宿している。

 やがて円は閉じ、外界の音がふっと消えた。

 視界はわずかな灰色の光だけに満たされ、風も止んだかのように静まり返る。

 「この中ならば、好きにしろ……死なない程度にな」

 低い声が結界の内に響く。

 アリスは足元に薄氷を走らせ、リューは肩を回しながら構えを取った。

 互いの視線が交差する。出会ったばかりの二人だが、この瞬間、言葉よりも確かな火花がそこにあった。

 ――対等か、それとも支配か。

 勝負は、この影の中で始まる。


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