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第五節:氷の青 その2

 アリスは青年を連れて、近くの目についた料理屋へ入った。

 木製の扉を押し開けると、室内は煮込み料理の匂いと暖炉の温もりで満ちていた。外の冷たい空気から一歩入っただけで、頬に柔らかな熱が触れる。

 奥の席に腰を下ろすと、彼女は青年に言った。

 「好きなものを選べ」

 青年は短く頷き、壁にかかった品書きをざっと目で追った。その視線は迷うことなく、一番上に書かれた肉料理を指さす。やがて大皿が運ばれてくると、青年は礼も言わず、ためらいなく手を伸ばした。

 最初の一口から、まるで獣のような勢いだった。

 ナイフを使う手が止まらず、肉は瞬く間に小さく切り分けられ、次々と口へ消えていく。温かなスープも、添えられたパンも、一息に平らげられた。

 アリスはその様子を黙って見つめていた。

 ――飢える、という感覚。

 彼女は生まれてこのかた、それを味わったことがない。いつも誰かが何かを与えてくれた。贈り物も食事も、欲しいと思う前に手元に届いた。

 妬まれ、敬われ、監視されながら、鳥籠の中で育った自分。今、この目の前の青年の必死さは、自分の歩んできた世界とはまるで別の現実だった。

 「なぜ魔法が使える?」

 青年はパンのかけらを口に放り込み、軽く息をつく。

 「……知らない。気づいたら、誰かが使った魔法なら使えるようになっていた。だから他人からは泥棒って呼ばれてる」

 「私からも盗めるのか?」

 「たぶんな」

 短いやり取りの中にも、アリスは胸の奥にわずかなざらつきを覚えた。能力の特性ゆえの危うさ。それでも彼女は、この青年に興味を抱いている自分に気づいていた。

 年は近いが、生まれた環境は天と地ほど違う。

 彼は孤児だという。親の顔も知らず、孤児院で育ち、必要最低限の衣食住を確保するために街の外れで過ごしてきた。

 他人に興味を示さず、群れにも属さない。そんな生き方をしてきたらしい。

 ――なぜ、この男には心が引っかかるのか。

 気づけばアリスは、普段なら誰にも向けないほど多くの質問を投げかけていた。

 「聞いてなかったな。お前の名を教えろ」

 高圧的な調子で尋ねると、青年はわずかに眉をひそめた。

 「お前じゃない。……リューだ」

 その名を口の中で転がすように繰り返す。

 「そうか……リューよ。影を知っているか?」

 問いかけに、リューは怪訝そうな表情を見せた。

 「影?」

 まったく心当たりがないようだ。そもそも彼は、自分の両親すら知らずに育ったのだ。幼い頃から影という存在に触れる機会などなかったのだろう。

 アリスは小さく息を吐く。

 ――なぜ影は、この青年を探しているのか。

 理由は分からない。それでも、自分に課せられた使命――リューを見つけること――は果たせた。

 その時、ふと胸の奥が軽くなった気がした。

 あの影と出会ってから、自分は施しを受けるばかりだった。今回ばかりは、自らの手で何かを成し遂げられたという感覚があった。

 「……」

 次の瞬間、アリスの背筋に冷たいものが走った。

 振り返ると、そこに影が立っていた。

アリスは王位継承者として、常に自身を守る結界を張っている。雪の結晶ほどに微細な侵入であっても視認できるよう、極限まで感度を高めた結界だ。

それにもかかわらず――背後のこの存在には、まったく気配を感じ取れなかった。

 目の前に立つ影は、相変わらず表情を読ませない。

 アリスはその存在を見据えた。

 自分の能力の現在地が、思っていたよりも低い場所にあることを、今、はっきりと思い知らされた。

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