第二節:影との契約
「……プルートを守れ」
その言葉は、冬の空気よりも冷たく、静かにアリスの耳へと届いた。
黒い影の男――アリスが心の中でそう呼んだその存在は、雪明かりを背にして立っていた。顔の半分はフードの陰に隠れ、表情は読めない。ただ、低く抑えた声の奥に、何か揺るぎない意志のようなものが潜んでいるのを感じた。
「……プルート?」アリスはわずかに首をかしげる。
それはこの国で最も価値ある宝――代々、王位継承者のみにゆだねられる国宝。純白の氷を核にして作られたとされ、その魔力は国家そのものを支えると伝えられている。
「私が王位につくことはないと思うぞ、影の者よ」
「そう思う理由は?」
アリスは口元だけで小さく笑った。笑みといっても冷ややかなものだ。
「現王は弱っている。おそらく叔父が王位を継ぐだろう。誰も、こんな小娘を玉座に据えようなどとは思わぬ」
影は短く沈黙した。雪の降る音が、わずかに二人の間に流れる。
「そうか……それは困るな」
わずかに吐き出された息が白く溶ける。その響きは妙に実務的で、脅しでも懇願でもない。
「困る?」アリスはわずかに眉を寄せた。
「俺が調整する」
その一言に、アリスは小さく瞬きをした。調整――それは権力者や宮廷の人間が使う言葉ではない。もっと直接的で、裏の匂いを伴う響きだった。
なぜ、この男は自分にそんな言葉を包み隠さず伝えるのか。そして、なぜかその率直さが、胸の奥をわずかにざわつかせるのか。
「影よ……お前は魔法を使うのか」
影は無言で一歩踏み出すと、足元の雪に伸びる自らの影をわずかに動かした。
その瞬間、周囲の光がかすかに揺らぐ。影は液体のように地面を走り、壁面を這い、アリスの背後へと回り込む。そして、次の瞬間には男の姿がすぐ後ろにあった。
アリスは息を呑んだ。恐怖ではない。むしろ胸の奥がわずかに高鳴る。
影が形を変え、空間を越え、意思に応じて自在に動く――その異質さと洗練された動きに、彼女は心を奪われた。
「影よ……さきほど“調整”と言ったな。私をこのくだらぬ鳥籠から解放することも、その中に含まれているのか」
「可能だ」
「……本当に?」
「お前は魔法が使える。しかし、過酷な未来が待っている」
アリスは一瞬だけ目を細め、そしてためらいもなく言った。
「かまわぬ。影よ、お前に任せる」
その言葉が口からこぼれ落ちた瞬間、周囲の空気がわずかに変わったような気がした。
まるで見えない水面に小石を落としたかのように、波紋が広がり、目には見えないが確かな変化が世界を覆っていく。
――それは錯覚ではなかった。
それから数日のうちに、信じられないことが起こった。
死の床に伏していた父――現王の体調が、医師たちの予測を超えて急速に回復しはじめたのだ。
重苦しい宮廷の空気は和らぎ、アリス派と叔父派の権力争いは、王の回復とともに急速に鎮静化した。
ある晩、アリスは父に呼び出された。広間の奥、燃える暖炉の光を背に、現王はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「この方は私の命の恩人だ」
王の視線の先には、一人の人物が立っていた。
姿こそ、かつて屋上に現れた影とは異なっていた。だが、その瞳、その存在感――間違いなかった。
影はアリスを見た。だが、その眼差しは彼女の肩越しの遠い夜空を見ているようでもあった。
「お前の未来について、この方と相談する。魔法の知識も力も、彼から学べ」
父の声は重く、だがどこか手放すような響きを帯びていた。
アリスは影から目をそらさなかった。
不思議なことに、この時すでに彼女は理解していた。
――この男は、自分の人生を変える存在になる。




