第六章 第一節:氷の国のアリス
この世界に声をあげて意識が芽生えたとき、アリスの胸にあったのは歓びではなく、うっすらとした倦怠だった。
すべての人間が自分を敬い、遠慮と計算を含んだ笑顔を見せる。陰では、誰がどちらの派閥につくのか、王位を継ぐのは誰か、婚姻はどうなるか、そんな噂ばかりが飛び交っていた。まだ数歳の子供のまわりにさえ、純粋な笑顔など存在しなかった。
アリスは、生まれながらにして空気を吸うように魔法を扱える素質を持っていることを知っていた。
けれど、それを口にすれば周囲は騒ぎ立て、能力を利用しようとするだろう。だから現王である父以外には黙っていた。
ただひとり、城の屋上で魔法の粒子と戯れる。雪を呼び、氷を形づくり、風を流し、そしてまた砕く。そこは誰も知らない、唯一の自分の居場所だった。
同じ年頃の娘たちは、誕生日に小さなペンダントやピアスを贈られ、互いに見せ合い、恋や友情を語り合うという。だが、自分は違った。欲しいものは必ず手に入り、城の一室は贈り物で埋め尽くされている。だからこそ、「欲しい」という感情が芽生えたことはなかった。
豊かすぎる世界は、彼女に何も与えてくれなかった。
空しい。
空虚だ。
この窒息するような日常から、どこか遠くへ抜け出したい――そう願っても、逃げ道はなかった。
魔法を操っている間だけ、その鬱屈した気持ちは少しだけ和らいだ。誰も干渉しない、自分だけの時間。冷たく澄んだ氷の結晶が、掌の中で静かに輝く。それは唯一、アリスが自ら選び、作り出せるものだった。
今にして思えば、あの行為は無意識に現実との均衡を保つためのものだったのかもしれない。
その日も、いつもと同じように城の屋上に出ていた。
冬の曇天は低く垂れこめ、雪雲の切れ間から細い光が差し込む。アリスは白い息を吐き、氷の輪を作っては壊し、また作った。城下の喧騒も、玉座の間のざわめきも、ここまでは届かない。
ふと、空気が変わった。
風が止み、音が消える。
そして、影が降りてきた。
黒い影――人の形をしている。翼もないのに、空からゆっくりと舞い降りてくる。
その影は、敵意を含んでいなかった。ただ静かに、雪を踏むこともなく降下し、アリスの前に立とうとしていた。
アリスは、驚かなかった。
もともと感情の起伏が乏しいのか、それともこの環境のせいで魂の言葉を失ったのか。いずれにせよ、その瞬間も彼女の胸は穏やかだった。
むしろ、奇妙な安堵すらあった。
――このまま、どこかへ連れ去られてしまえばいい。
そうなれば、この退屈な日々は終わる。政略や陰口に満ちた毎日も、飾りだけの王冠も、何もかも手放せる。
黒い影の正体が何であれ、彼が自分をさらうのなら、それはきっと“解放”だ。
影の男は、雪明かりの中に降り立った。
長い外套の裾が風に揺れ、その下から冷たい光を宿した瞳が覗く。
アリスはその視線を受けても、やはり何の感情も湧かなかった。ただ、見つめ返す。
「……お前は」
影が低くつぶやく。声はかすかに掠れていて、しかし凍るような静けさを帯びていた。
アリスは答えなかった。
言葉を交わす理由もない。ただ、その存在を見極めるように目を細めた。
彼の立ち姿からは、鋭い刃のような緊張感と、深い疲労の両方が漂っている。生者とも死者ともつかぬ空気――まるで冥府から迷い出た影のようだ。
そのとき、アリスの胸の奥で何かがわずかに動いた。
恐怖ではない。好奇心だ。
生まれて初めて、自分の世界の外から来た“未知”が目の前に現れた。
「……私を、どこかへ連れて行くの?」
自分でも意外なほど静かな声だった。問いというより、確認に近い響き。
影の男は答えなかった。ただ一歩近づき、その気配が雪よりも冷たく、しかし妙に安らぎを与えることにアリスは気づく。
その感覚は、長い間忘れていた“何か”を呼び覚ましつつあった。




