第九節:不条理の先にある自由
戦場の幻が、ゆっくりと色を失っていった。
血の匂いも、火の熱も、仲間の叫びも、一つずつ剥がれ落ちるように遠ざかっていく。
足元の土は影に溶け、やがて漆黒の大地へと変わった。
そこに――黒き影が立っていた。
ハデス。
冥府を司る問いの主。
その姿は、形を持ちながらも、見る者によって輪郭を変える。
ザギの目には、それは巨大な人影にも、深淵の穴にも映った。
影の奥に、何万年も魂を見つめ続けた者の眼差しが潜んでいる。
「……終わったか」
低い声が闇を渡った。
ハデスの声は重く、だが響きは不思議なほど澄んでいる。
そこには断罪も嘲笑もなく、ただ観察者の静けさがあった。
ザギは息を整えた。
胸の奥にはまだ熱が残っている。涙の跡は乾ききっていない。
だが、剣を握る手の震えはもうなかった。
握った感触は、過去と共にある重み――それは振り払うべきものではなく、抱えて進むべきものだった。
「……見えたか?」
ハデスの問いに、ザギは短く頷いた。
そして、まっすぐに黒影を見据える。
「人生は、不条理に満ちている。だが、その不条理に気づいたとき、人は初めて自由になる」
その言葉は、胸の奥から自然に溢れた。
それは誰かに勝つためでも、誰かを納得させるためでもない。
己に向けた宣言であり、赦しの言葉でもあった。
ハデスは一瞬、沈黙した。
やがて影の輪郭がわずかに揺らぎ、低く頷く。
「闇に墜ちてきた異邦人よ、冥府の門は開かれよう」
その言葉が大地に染み込むと、足元の闇が波打ち始めた。
割れ目が走り、そこから淡い光が滲み出す。
光は細く弱々しいが、確かな温もりを帯びていた。
視線を上げると、遠くに門が見えた。
それは黄金でも白銀でもなく、古びた石でできた質素な門。
だが、その向こうには色彩があった――灰色の冥府には存在しない、現世の色だ。
ハデスは最後に言葉を投げかける。
「人間よ、ザギよ、救済ではなく、不条理を持ち続けよ。生きる者の特権だ」
ザギはその言葉を胸に刻む。
過去は断ち切れない。
しかし、それを抱いて歩むことはできる。
そして、その歩みこそが“自由”なのだと、今は思える。
剣を腰に収め、一歩、また一歩と光の方へ進む。
靴底が闇を踏みしめるたび、門がわずかに近づいてくる。
背後から、ハデスの気配が静かに薄れていく。
「我が名はハデス、人は我をプルートとも呼ぶ、探せ、ザギよ貴様は我と触れた、故に刻印を有す…また、会うだろう」
風のような囁きが、耳の奥で響いた。
ザギは振り返らない。
前だけを見据え、冥府の門をくぐる。
その瞬間、微かな風が頬を撫でた。
冷たくもあり、懐かしくもある感触――生の匂いを含んだ風。
ザギの瞳には、かつての迷いと共に、新たな輝きが宿っていた。
通信機を起動させる。
「ゼノン、聞こえるか」
『ああ、どうだった? コアは――』
ザギは短く息を吐いた。
「……コアは手に入らなかった」
その言葉と共に、胸の奥の熱が少しだけ落ち着いていく。
だが、すぐに視線を前に向けた。
「――次に向かう場所がわかった」




