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第七節:問いを与える神

 その男は、静かだった。

 魂とは思えぬほど、沈黙を纏っていた。

 冥府の門に至るまで、誰とも交わらず、誰にも呼ばれず、ただ己の影と歩いていた。

 ハデスは、その姿を遠くから眺めていた。

 まるで、己の中に沈んでいく者を見つめるように。

 闇に慣れた瞳を持ちながら、どこか光を拒むような歩き方。

 だが、完全に絶望した者とは違う。滅びではなく、内なる咆哮を押し殺した者のだった。

「また、奇妙なものが落ちてきたな」

 ハデスは呟いた。誰にでもなく、ただ空虚へ向かって。

 長きに渡り、幾千幾万の魂を見てきた。

 戦士。母親。詩人。王。殺人者。救済者。

 だがこの男――ザギという名の魂は、どれにも当てはまらなかった。

 彼の魂には、“形”がなかった。

 深い後悔に削られ、怒りに焼かれ、赦しを拒み続けた結果、自らを誰とも定義しない曖昧な存在となっていた。

 それでいて、芯には強烈な“何か”が残っている。どこか無垢に近い。

「お前は、誰のためにその魂を使っている?」

 その問いが、ハデスの中で自然に立ち上がった。

 決して声に出したわけではない。だが、ザギの魂は微かに震えた。

 それだけで、ハデスには十分だった。

 問いは、届いている。

 人の魂というものは、不思議なものだ。

 神に仕えず、運命に選ばれず、それでも自らを“選び続ける”。

 なぜ選ぶのか、選ぶとは何なのか――

 それを知りたくて、ハデスは数万年、問いを投げ続けてきた。

 ハデス自身が力を行使して手を下すことは、決してない。

 罰も、救済も、選定もしない。

 彼がするのは、ただ一つ――“映す”ことだけだ。

 魂が過ごしてきた記憶。悔い。叫び。後悔。誇り。

 それらを“鏡”として提示する。

 そして、魂自身がそれにどう反応するのかを、ただ見届ける。

 脳内に現れる終わらない戦場、繰り返される死、消えぬ罪悪感――

 それらはハデスの創造ではない。

 魂たちが自ら再生しているのだ。

 自分を縛り、自分を罰し、自分を赦すために。

 ハデスは、その“自動再生される映像”の観客に過ぎない。

 ある者はこれをシーシュポスの罰とも言うらしいが、罰ではなく問いだ。

 「問う者であって、干渉する者ではない」

 それが、彼が唯一守り続けてきたルールだった。

 だからこそ、ザギのような者に出会った時、ハデスの興味は静かに揺れる。

 冥府の奥、最も深く、静かな領域。

 ザギが侵入したその空間は、死者の誰も辿り着いたことのない“問いの場所”だった。

 光はない。

 音もない。

 あるのは、記憶と沈黙、そして彼の中にある“答えのない問い”だけ。

 そしてそこに――ハデスは現れた。

 魂の流転を無数に見届けた者の眼差し。

「ザギ」

 その名を呼ぶと、空間がわずかに震えた。

 言葉は宙に消えたのではない。魂の核へと突き刺さった。

 ザギはゆっくりと顔を上げた。

 剣を握る手に力がこもり、しかし、迷いも同時に浮かんでいた。

「私が、お前に与えるのは――答えではない」

 ハデスの声は、深海のようだった。

「お前が今なお問いを持ち続けていること。

 それこそが、お前が生きている証だ」

 再度、ザギの過去が、記憶が、後悔が――その空間に映し出されていく。

 それは“試練”ではなかった。

 ただの“鏡”。

 自分がどんな者であったか。どこで歪み、どこで叫び、何を手放してしまったのか。

 その全てを、ザギ自身が見つめるための空間。

 ハデスは、ただそこに立ち、静かに言った。

「問え、ザギ。そして――問われよ」


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