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第五節 飽きた神々、壊れた秩序

 神々の戦が終わった。

 それは、永遠にも似た光と闇の交錯の果て。

 兄ゼウスの雷が天を裂き、父クロノスを奈落へと打ち落とした時、すべてが静止した。空の神、海の神、冥府の神――三柱は並び立ち、古き時代に終止符を打ったのだ。

「ハデス。お前の望みは何だ?」

 戦の直後、静まり返った空の下で、ゼウスは重く息を吐きながらこちらを見た。

 血まみれの雷槌を握ったままの弟ポセイドンも同じ問いを向けてくる。

 二人とも、この戦いに何かを得たがっていた。勝利の象徴を、支配の領域を、運命の分配を――だがハデスには、どれもどうでもよかった。

「望み……?」

 呟いたその言葉の響きに、彼自身が違和感を抱いた。

 望むという感情。誰かを越えたい、何かを支配したいという欲求。

 戦いの最中にも、彼の心は一切熱を持たなかった。

 ゼウスが怒り、ポセイドンが叫び、クロノスが狂気に沈む中で、ハデスはただ静かだった。

「……何もいらぬ。ただ静かな場所をくれ」

 その言葉が、冥府の始まりとなった。

 神々の間で土地が分けられた。

 ゼウスは空を。ポセイドンは海を。

 そして、誰も望まなかった“死の領域”を、ハデスが引き受けた。

 冥府。タルタロス。アスフォデル。黄泉の門。名前だけは恐ろしく、実体は虚無に近い。

 そこはどこまでも静寂で、誰にも見られず、誰にも必要とされない“無”だった。

 だが、それがよかった。

 最初の数千年、ハデスは満たされていた。

 誰にも問われず、誰にも干渉されず、闇に溶けてただ存在すること。

 それは彼にとって、「息を吸うように自然な安寧」だった。

 戦の喧騒も、神々の策略も、英雄たちの栄光も、すべてが届かない静謐。

 そのまま、永遠にそうしていられると――思っていた。

 だが、神々の秩序が完成し、世界が落ち着き、やがて“人間”という存在が地上に現れてから、すべてが少しずつ歪み始めた。

 それはある時、突然に降ってきた。

 初めて“魂”が冥府に落ちてきた瞬間。

 それは光でも闇でもない、微かに震える塊だった。

 命を終え、記憶の断片を引きずったまま沈んでいくそれは、なぜか消えず、消されもせず、冥府に“留まり続けた”。

「……これは?」

 興味が湧いたわけではなかった。ただ、それは“異物”だった。

 無で構成された冥府に、わずかに震える何かが混ざっている。

 触れることもなく、語りかけることもなく、彼はただその魂を観察した。

 魂は震え、涙し、かつての光景を自ら再現した。

 戦争。家族の死。裏切り。飢え。歓喜。

 どれもが幻のようで、どれもが強烈だった。

 死してなお、記憶は魂に刻まれ、それは光の残響のように冥府を照らした。

 “彼”の世界に、初めて“動き”が生まれた瞬間だった。

 闇しか存在しないこの場所に、ほんのわずかな、だが確かな“色”が灯った。

 それは火ではなく、雷でもなく、ただ心の残響のようなもの。

 生きていた者の想いが、死してなお残るという不可解な現象。

 ハデスは、ほんの一瞬――それを「見たい」と思った。

 それが、すべての始まりだった。


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