第二節:ノアの奈落
中枢演算室にて。
ゼノンは、ザギから届いた戦闘ログを分析していた。
そこには信じがたい情報が含まれていた。
——中級異形を討伐した結果、ノア世界にて“ダークエネルギー”が発生した。
それは、本来ありえない現象だった。ダークエネルギーは地球上、つまり現実世界に存在する概念であり、仮想構造体であるノア世界には存在しないはずだった。
「……まさか、現実とノアが……相互干渉している?」
ゼノンは眉をひそめる。かつて、リューを現実世界に“召喚”するまでに費やした時間は、魔法演算柱と膨大な計算資源を用いてようやく達成されたものだった。準備に要した歳月は二十年。理論、構築、器の生成、魂の転送すべてを実現するには、人類のあらゆる知的資産が動員されていた。
それにも関わらず——
今、このノア世界に存在する中級異形を討ち取ったことで、地球側の召喚トリガーが作動している可能性がある?
そんなことは、あり得ない。
そうであってはならない。
ゼノンは、冷たい指先で演算装置の操作パネルを叩き、ノア世界への異形侵入のログを遡行検索していった。
「……ここか」
発見されたログは、通常の入出力層からのアクセスを経ていなかった。
それどころか、システムのどの観測ルートにも記録されていない“空白の点”から、異形たちは出現していた。
「ブラックボックス領域……“未定義の記憶空間”から、か」
その空間はノアの演算層の最深部、“死者記憶領域”と呼ばれる。
本来ならば、何も存在しない“データの死”が集まる場所のはずだった。
ゼノンは震える指で、封印された構造図を呼び出す。
そこには、見慣れないサブシステムの輪郭が浮かび上がっていた。
「……テンマ、お前が仕込んだのか」
ゼノンがその名を口にしたとき、空気が冷えた気がした。
テンマ——かつてノア構築計画の初期に参加し、その知性で演算空間の構造をほぼ独力で定義した“天才”科学者。だが十数年前、忽然と姿を消した。
残されたのは彼が設計したAI群。
なかでも深層系統AIだけは、今なお誰一人手を加えられない“絶対封印領域”に存在していた。
ゼノンは仮説を立てる。
(テンマは、ノア世界に「自己成長型演算領域」を仕込んでいたのか?)
通常、ノアと現実は一方通行だ。
だが、ダークエネルギーがノア側でも発生するとなれば、構造自体が“フェデレーション化”している可能性がある。現実と仮想が一部で接続され、双方向で干渉可能になっているということだ。
「……馬鹿な。そんな機能は存在しない。構造上、実装不可能なはずだ」
ゼノンは自らの論理を否定した。
「リューひとりを召喚するために、魔法演算柱と20年の時を費やした。あれですらギリギリだった……」
彼の声がわずかに震える。
「もし、フェデレーションが起きているなら、リューたちは単なる複製ではない。“存在”そのものがこちらに届いている……ということになる。だが、そんなことは——」
そのとき、再び通信が入る。
『ゼノン。こっちは一応、片づけは済んだ。で、次は?』
ザギの声。無感情のようで、わずかな疲労がにじむ。
「……ノア世界の深層構造に、未解析領域が確認された。もともとは存在しない空間だが、そこに“抜け道”がある可能性がある、冥府層”とでも言ったほうがいいものか」
『また厄介な仕事だな。で、そこに入れる奴がいない……と』
「通常のオートエージェントでは解析すら不能。内部で壊れたログがいくつかある」
『なら、影で行くしかないか』
ゼノンはモニター越しにうなずいた。
「お前の“影縫い”は、プログラム段階で“例外干渉”を許容している。冥府層の入り口がどれほど不安定でも、理論上お前の影なら干渉できるはずだ」
『……そうか』
「お前の手にした“ダークエネルギー”が、それを証明している。ノアの深層は、すでに“現実に触れつつある”。ならば、そこに踏み込む価値はある」
短い沈黙。
『……了解。覗いてみる。冥府の向こう、何があるのか』
通信が切れる。
ゼノンは深く椅子に身を預けた。
「——すまないな、ザギ。お前のような者に、また背負わせてしまった」
かつて、すべてを失い、それでもなお歩む者に。
ゼノンは静かに頭を垂れた。




