最八節:新たな大地の神(後編)
瞬間、空間がねじれた。
ミダス大河のほとり、カイの周囲に生じたのは、熱でも冷気でもない、圧そのものだった。見えない重力場が渦を巻き、世界そのものが沈み込むような違和感が広がる。
「……ワレ、主の影なり」
メギが呟いた。声というよりも、重力の波動が空気を揺らした。
「真の神に触れる手を、滅す」
その言葉とともに、カノッサの右腕が——消えた。
引きちぎられたのではない。斬られたのでもない。そこにあったはずの腕と手が、まるで存在そのものが否定されたかのように、音も血もなく“消滅”した。
「が……あ、あああ……?」
カノッサは呆然と自らの肩口を見下ろす。腕がない。感覚もない。だが、痛みすらない。
「……何を……した……?」
誰も答えられなかった。リューも、ザックも、グラムでさえも、今起きた現象の正体を説明できない。
だが——
「やっぱり……カイは、普通じゃない」リューが静かに言った。
「俺が鍛えてやったからなあ」とザックが続けた。
影の神魔、メギ。その力の一端が、いま確かに発現したのだ。
ミノタウロスたちの間に動揺が走る。主の腕を消し飛ばすような力をもった存在たち。
恐怖は理性を越えた。誰からともなく膝をつき、槍を地に置く音が広がる。
「……我ら、従う……」
カノッサの軍勢が、ザックの前にひれ伏していく。土を噛み、誇りを捨て、命乞いではなく“忠誠”の姿勢で。
だが、その中心で、ただ一人、崩れかけた感情を吐き出す男がいた。
「……なぜだ…………!」
カノッサが叫んだ。
「なぜ、お前はいつも奪っていく……力も、名誉も、愛も……っ!」
ザックはゆっくりと歩み寄る。
「……カノッサ」
「うるさい!! お前がいなければ……お前さえいなければ、俺は……!」
「うだうだうるせーやつだ、男なら、拳でこい」
ザックの声は静かだった。静かすぎて、逆に凍えるようだった。
「お前はきっと、弱くねえ。なのに……いつから逃げるようになった?」
カノッサが吼えた。
再び毒の瘴気が噴き上がる。だが、それを突き破ってザックの拳が伸びる。
爆発のような轟音とともに、戦場が揺れた。
ザックの拳が振るわれるたび、大河が波打ち、空気が割れる。防御も回避も意味をなさない。ただ圧倒的な力の奔流が、破壊という形で世界に刻まれていく。
デイアネイラは、両手を胸に重ね、目を閉じた。
「……ありがとう、ヘラクレス……いいえ、ザック。もう……十分です」
戦いの果てに立つその男の背中は、あの頃の“英雄”の姿に重なっていた。
最後の一撃。
拳がカノッサの胸を打ち抜き、土煙と共に彼の体が地に伏す。
ザックは肩で息をしながら、ゆっくりと拳を下ろした。
「よう……カノッサ。お前は、弱くねえ」
静寂の中、その声は誰よりも優しかった。
「最初から、真正面から……あいつに立ち向かえばよかったんだ。それだけだった」
風が、ざわりと吹いた。
カノッサの目から、ぽろりと一粒、涙がこぼれた。
——いつから、ヘラクレスに立ち向かうことをしなくなったのだろうか。
もう自分でもわからない、最初の剣の試合で敗北した時だろうか
もう自分でもわからない、愛する人に、思いを告げなかった時だろうか
もう自分でもわからない、強さを他者に願ったあの時だっただろうか
意識が沈んでいく。
遠くの空に、光が走った。
その閃光の中、ザックの瞳だけが、真っ直ぐにカノッサを見つめていた——。




