最八節:新たな大地の神(前編)
ミダス大河の上空に、黒雲が渦を巻いていた。雷鳴も稲妻もなく、ただただ重く、音を吸い込むように渦を描く。
濁流の向こう、ケンタウロスの軍勢が地を揺らし進軍してくる。百体を超える筋骨隆々の獣人たちが、大地を踏み鳴らすたび、河岸に亀裂が走り、砂塵が舞い上がった。
角笛が三度鳴る。咆哮が空に突き抜け、戦の幕開けを告げた。
その中心に立つカノッサは、もはや人の姿をしていなかった。毒の神魔として生まれ変わったその肉体は、血管のように浮かぶ毒紋に覆われ、皮膚は岩のように黒く硬化し、肩からは瘴気が常に噴き出していた。
「なぜ、貴様が立っている……!」
怒声が響く。かつての「親友」への想い、それはもはや言葉にすらならない。
対するザックは静かだった。
「……遠慮はいらねえな。ここには、壊しちゃいけねえ街も、人もいねえ」
その言葉に、リューやカイも背筋を正す。ザックの背から噴き上がる気配は、まさに“神”のそれだった。
彼の拳がゆっくりと構えられた。
「土怒髪天!!」
地が、唸った。
ザックの拳が振り下ろされた瞬間、大地が崩れ落ち、空間が“ひずんだ”。ケンタウロス軍の前列は吹き飛び、土柱と雷光のような亀裂が辺りを薙ぎ払った。
「な、なんだあれ……」カイが目を見開く。
「修行時代にも見たことがない。底がない男だとは思っていたが……」リューは唾を飲み込んだ。
グラムが静かに呻いた。
『さすがヘラクレスの意志を継ぐ者……まるで、英雄の復活だな』
ザックの一撃が放たれるたび、大地は陥没し、土塊と共にケンタウロスが宙を舞う。
それを見て、カノッサの心はざわついた。焦りが、皮膚の内側からじわじわと染み出す。
「まただ……また“あれ”を見せつけられるのか……!」
牙をむいたカノッサは、舌打ちする。正面からでは勝てないと、心が叫んでいた。
ザックの拳に耐えられる者など、この場にいない。では、どうする? どうすればこの“光”をまた曇らせることができる?
視線が、一人の少年をとらえた。
——カイ。
小さな体。まだ若い。戦場に立つには、未熟。あれを“盾”にすれば——
カノッサの瘴気が地面に溶け込むように広がる。
そして、闇が地中から伸びた。
刹那、リューの背筋に寒気が走る。
「カイ、下がれ——!」
だが、遅かった。
カイの背後に現れたカノッサの腕が、その首筋に分厚い指を添えた。
「動くな、小僧はこの手にある」
冷たい声音が戦場の空気を裂く。ザックが振り返り、リューと共に構える。が、動けない。
「おい、ヘラクレス……いや、ザックだったな? こいつの命、惜しかろう?」
勝ち誇るような笑みを浮かべるカノッサ。
だが、そのときだった。
『……選ぶ相手を間違えてるぞ』とグラムが言った。
カイは、無表情だった。
「離したほうがいいと思う……カノッサ。あなたのために言ってる」
……なぜだ。
なぜ、この少年は怯えない? なぜこの状況で笑っている? そして——なぜ、ザックは拳を下ろさない?
「なん、だ……?」
カノッサの額に、冷たい汗がにじんだ。
胸の奥に、不気味なざわめきが走る。
そしてその正体は、まだわからない。
だが、そのざわめきこそが、次の災厄の前触れであることを、カノッサはこの時、まだ知らなかった——。




