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第七節:カノッサの屈辱(後編)

 カノッサはあの瞬間のことを、今でも鮮明に覚えていた。

 ミダス大河を流れる水面は、夕日に照らされ黄金に染まっていた。

 豊穣と祝福の象徴であったあの河が、ヘラクレスの最後になる河。

 その場に立ち会い、すべてを見届けたのは——カノッサだった。

  河の向こう岸に、デイアネイラを抱いて渡ろうとする男の背中があった。

 堂々と、迷いもせず、大地を踏みしめるような歩み。

 その姿に、かつての自分が焦がれ、憧れ、そして呪ったものすべてが凝縮されていた。

 デイアネイラを利用して、ヘラクレスに毒を塗る。簡単なことだった。

 ディアネイラをだましたあとは、自分は死んだふりでもしてればいい、どうせ死ねない体になり果てたのだ。

 重力に従って崩れ落ちるように倒れ込んだその身体に、誰よりも強かった“英雄”の面影はなかった。こんなことで終わらせられるとは、意外とあっけないものだった。

 デイアネイラの悲鳴も届かなかった。

 目の前で、愛する者を失った彼女の顔を、カノッサは見ようとしなかった。

 あの日の空の色すら、今も覚えている。

 初めて、空が、自分の上にだけ広がっていると感じた。

 ——だが。

 それからどれほどの時間が経ったのか、わからない。

 風が変わった気がして、ふと川面を見やると、流れてくる“何か”があった。

 白い布に包まれたそれは、まるで眠るように静かだった。

 近づいてみて、それが人の形をしていると気づいたとき、カノッサの心にさざ波が立った。

 ——女だ。

 「……デイアネイラ……?」

 返事はない。

 そのまま河は彼女を飲み込み、流し去った。

 その夜、カノッサは眠れなかった。

 勝利の興奮も、達成の快感も、そこにはなかった。

 目覚めた習慣、残っていたのは、底なしの空虚と、指の隙間からこぼれ落ちるような“不安”だった。

 「終わっていない……何かが、終わっていない」

 それは予感でも直感でもなかった。

 “確信”だった。

 大地すら穢す瘴気を従え、毒の神魔としてミダス大河の地を支配した。

 だが——

 「戻ってきたのか……あの姿で………」

 ザックの登場は、すべての記憶を掘り返す引き金となった。

 あれほど明確に殺したはずの存在。

 あれほど憎んだ“光の象徴”が、再び目の前に現れたのだ。

 「違う…ヘラクレスではない。だが、間違いなく……奴を感じる」

 そして、デイアネイラが彼に向けるあの目。

 ——なぜまた、あの光に惹かれる?

 ——なぜ、俺の“勝利”は再び奪われる?

 感情が焼けるように膨れ上がる。

 毒が血管を逆流するように、怒りが心を蝕んでいく。

 「ならばもう一度、殺すまでだ」

 「今度こそ、完全に、“光”を——」

 そのとき、遠くの空に紫の閃光が走った。

 それは、かつて神魔と契約した日とまったく同じ光だった。

 カノッサは顔を上げた。

 その口元が、久しぶりに笑みを浮かべる。

 「さあ、始めようか……」


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