第六節:カノッサの屈辱(前編)
「いつも、いつも……そうだった」
カノッサは呟いた。自らの記憶の底に沈む泥濘を、静かに引き上げるように。
彼が“それ”に気づいたのは、まだ子供の頃だった。
同じ戦場に立ち、同じ鍛錬を積み、同じように剣を握っていた。
だが、結果は常に同じだった。
勝つのはヘラクレス。
注目を浴びるのはヘラクレス。
神々の声がけも、賛辞も、視線も、すべてあの男に集まった。
「お前はよくやった」とは言われた。
だが、その“よく”の先に、“だが、彼には及ばない”という言葉が、いつも見え隠れしていた。
任務に忠実に徹し、誰よりも神の意図を汲んで動いた。
あるとき、彼は一軍を単騎で制圧し、神界に重大な戦果をもたらした。
誰もが彼の働きを讃えた——だが。
その翌日、神々が讃えていたのは、別の戦場で「巨獣を一太刀で斬った」ヘラクレスだった。
認められたいわけじゃなかった。ただ——見てほしかった。
「……順番は、変わらないのか」
カノッサは空を見上げて笑った。
そこで、彼の中に「歪み」が生まれた。
そしてそれは、誰にも気づかれないまま、深く、静かに根を張った。
神に、民に、彼女に……。
そう、デイアネイラ。
遠くから、ただ一人、彼女を見つめていた。
気づかれなくてもよかった。名前を呼ばれなくてもよかった。
誰よりも長く、深く、思いを抱いていたのに。
心が壊れたのは、きっとヘラクレスの結婚式だった。
神殿に招かれたその日。
花嫁デイアネイラの隣に立つヘラクレスの顔は、まっすぐで、純粋だった。
悪意も慢心もない。ただ、彼女を幸せにするという一心。
——「紹介するよ、俺の親友だ。昔から一緒に戦ってたんだ」
その瞬間、カノッサの中で“何か”が確かに音を立てて崩れた。
親友? 違う。お前は……俺から何もかも奪う簒奪者だ。
彼は密かに、神と人をそそのかし、ヘラクレスに“試練”を仕掛けた。
「この道を通らせるな」「この任務には余計な重荷を」
だが、ヘラクレスは決して屈しなかった。迷わなかった。
むしろ、その困難の中で輝き、讃えられた。
「なぜだ……なぜお前は、そんなにも……」
ヘラクレスだから。
それが答えだった。
生まれながらにして、陽に照らされた者。
存在そのものが正義であり、栄光であり、無垢だった。
だからこそ——壊したかった。
そんなある日、ひとつの“声”がカノッサに降りた。
「お前を、この世で最も強き姿・強い者にしてやろう」
「望みはただ一つ。ヘラクレスを……殺せ」
その上位の神魔は名を名乗らなかった。
だが、提示された“毒の粉”は、神でも死に至るほどのものであり、疑いようのない“本物”だった。
カノッサは迷わなかった。
彼は知っていた。ヘラクレスとデイアネイラが“ある河”を渡る予定であることを。
「聖なる河——ミダス大河」
あの場所ならば、誰の目にも届かず、跡も残らない。




