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第四節:毒流れし記憶の河

 それは、もはや“川”と呼べる代物ではなかった。

 紫黒に濁った濃流が、大地を蠢くようにゆるやかに流れている。水面は泡立ち、ところどころから不気味な湯気のような毒霧が立ち上っていた。名を「ミダス大河」。かつては聖域と呼ばれた清流の地。今は、神魔すら立ち入ることを拒まれる“汚れの源”と化していた。

 「……ここが……あの河……」

 デイアネイラが、震えるような声で呟いた。

 その頬を風がなで、紫色の霧がわずかに彼女の髪を揺らす。しかし彼女は、目を逸らすことなく、静かに河面を見つめ続けていた。

 「この場所……」

 リューは言葉を挟まず、カイもまたメギを背に沈黙していた。

 ザックだけが、河の強烈な毒気に顔をしかめていたが、それが瘴気のためか、あるいは別の感情かはわからなかった。

 「その昔、この河を渡るとき、ケンタウロス族の男に襲われたの」

 デイアネイラが、過去を静かに語りはじめた。

 「私の夫が……命を賭して私を守ってくれたわ。傷を負いながらも、私を抱えて対岸まで辿り着いて……。その時、ケンタウロスは瀕死だった。でも、最後に……彼は死に際にある粉を私に差し出してこう言ったの」

 『あなたを傷つけてしまった罪ほろぼしに、この粉を、あなたの愛する人に塗ってください。

 そうすれば、彼は永遠にあなたを想い続けるでしょう』

 「……私は、信じてしまった。愛する気持ちが強すぎたから……」

 彼女の声は細くなっていく。

 「そして……私はその粉を、彼に与えた。肌に、心に染みるように……。

 でも、それは——死の毒だった」

 沈黙。

 「私が彼を……私の手で、この場所で殺してしまったのよ」

 絞り出すような言葉に、誰も口を開けなかった。

 「気づいた時には、遅かった。彼の目から光が消えて……その笑顔が……私の中で崩れていった。あまりに愚かで、救いがなくて……。私はこの大河のほとりで、自分の心ごと、身体を……投げ出したの」

 リューは胸の奥に詰まるものを感じながら、彼女の横顔を見つめた。

 その表情には、もはや神魔の威圧などなかった。

 ただ、深く――人間のように深く、悔いと哀しみが宿っていた。

 「……目覚めたとき、私はトコ地区の中心にいた。辺りは瘴気に覆われ、生命のない毒の地と化していた」

 彼女は続ける。

 「私の心が、怒りと悲しみであの地を……“誰も近づけない領域”にしてしまった。神魔でさえ踏み込めない“孤独”を……」

 その沈黙が、彼女の痛みの重さを物語っていた。

 ザックは、拳をぎゅっと握っていた。

 その目は、どこか遠くを見るように虚ろで、それでも怒りと哀しみの熱を秘めていた。

 「おい……そのケンタウロスって、名前を覚えてるか?」

 デイアネイラはゆっくりと頷いた。

 「……カノッサ。私がこの名を憎む限り、奴はどこかにいる。

 この河に、奴の気配があると……確信してるの」

 その瞬間だった。

 地面が、微かに震えた。

 蹄の音がした。

 最初はひとつ、ふたつ。そして、すぐに大地全体が唸りをあげた。

 「……来たか」

 ザックが、地平のかなたに目を向ける。

 毒霧の向こうから、濃い影がゆっくりと姿を現した。

 筋骨隆々の半獣半人のケンタウロスたち。

 その数、およそ百。

 「数……多すぎるな」

 リューが冷静に言った。

 「待て、下がってろ。俺が行く」

 ザックが、すでに前に出ていた。

 「おい、勝手に突っ込むな!」

 リューの声に振り返らず、ザックは笑った。

 「会ったばかりだが……あいつがここで死んだって話を聞いて、黙ってられるほど冷めちゃいねぇんだよ」

 魔剣グラムがぼそりと呟いた。

 『やれやれ、こうなると思っていたが……さすが我の剣を拳で受け止めた男だ』

 ザックの背が、大河の毒気の中に消えていった。

 その拳には、何者にも屈しない意思が込められていた。


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