第三節:毒姫の記憶と河の名
「……我が愛しき人よ……」
その声は震えていた。張り詰めた空気の中で、まるで古の幻が蘇ったかのように響いた。
デイアネイラは迷うことなくザックの胸に飛び込んだ。
驚愕したリューとカイは反応できず、魔剣グラムだけが低く呟いた。
『まさか……』
「……!」
ザックは抱き留めた形になったまま、困惑しつつも彼女を無理に引き剥がすことはしなかった。
「……夢で……何度も、会ったの。あなたの背中を、この腕で抱きしめて……」
彼女の手が、ザックの背をかすかに撫でる。その細い指先に、震えが宿っていた。
「……悪いが、人違いだ」
ザックは静かに言った。だが、彼の声音に怒気も否定もなかった。
デイアネイラは、しばらく沈黙したまま目を伏せた。
そして小さく、呼吸を整えるように言葉を継いだ。
「……記憶が曖昧なの。私が目覚めたとき、瘴気に包まれていた。でも、胸の中にだけは、強く残っていたの。
愛した人を、私が……私の手で……」
「殺したのか」
リューの声が低く、慎重に割って入った。
「……そう。あのケンタウロスの奸計だった。私の夫は、あの毒に……信じていた者に裏切られ、そして……」
その瞳は遠く、絶望に沈んだ色をしていた。
「その記憶と悔恨だけが、意識の底に残っていた。そして、あなたに出会った瞬間——なぜだか、全ての苦しみが溶けていったの」
「俺に、そんな癒やす力があるとは思えねえけどな……」
ザックは自嘲気味に笑った。
「でも、違うの。わかるの……あなたじゃない。なのに、同じ温もりが……確かに感じられた」
リューはその会話を黙って聞いていたが、やがてゼノンの視線と交差した。
「神魔にも……こんな感情があるものなのか」
「いや、彼女が“まだ壊れていない”というだけだろう」
ゼノンは静かに答えた。
「お願い……私を、ミダス大河へ連れていって」
デイアネイラが振り返り、リューたち全員に頭を下げた。
「私がこの世界に存在しているということは……彼もまた、この地に痕跡を残している。あの河に、きっと……」
その姿に、誰もがすぐに返事をすることはできなかった。
ザックはしばらく無言のまま、空を見上げた。
まるで、遠い記憶を探るように——。
その夜、トコ地区の瘴気の外れにある仮設の野営地で、焚き火を囲んで一同は休息を取っていた。
リューは薪の火を見つめたまま、ぽつりと漏らす。
「……ここまで来て、まさか神魔に情を向けられるとは思わなかった」
「まさかザックにな…」
グラムが軽口を叩くと、ザックが珍しく笑った。
「……でもな、あいつの言葉を聞いてると……胸の奥がざわつくんだよ」
ザックの言葉に、一瞬場が静かになった。
「まさか……お前まで記憶をなくしてたとか?」
「いや、そうじゃねえ。ただ、もし本当に“あのときの誰か”の生まれ変わりだとか言われたら……否定しきれねえくらいの既視感がある」
リューは静かに頷いた。
「……ミダス大河へ行こう。そこに何かがある。俺たちの戦いと、この世界の謎をつなぐ……何かが」
そのとき、遠くの空が一瞬だけ、紫色に光った。
誰もが顔を上げたが、その光はすぐに消えた。
ただ、カイの背後で揺らいでいた影、メギだけがわずかに振り返る。
まるで、“何か”の到来を察したかのように——。




