第4節:封印と鍵の記憶
カイは、目を覚ました瞬間に違和感を覚えた。 風の音が、どこかざわついている。胸の奥がざらつくような、不穏な感覚だった。寝台を抜け出し、階段を降り下層へと向かい
階段の途中で足が止まる。石の床に、赤い跡がにじんでいた。
「……血?」
叫びはしなかった。けれど、息が詰まったような静けさの中で、音なき緊張が肌を刺す。
急いで地下の通路を駆け降りると、塔の一番奥、普段は誰も近づかない小部屋の前に、老人が倒れていた。
「リューさんッ!」
カイの声に応じて階上から駆けつけてきたリューは、老人の傍に膝をついた。
胸元には深い裂傷。血に染まった衣の下で、呼吸は既に浅く、もはや戻らないことを示していた。
リューが声をかけた時、老人の唇が微かに動いた。
「……鍵は…………ない……」
それが最後だった。
言葉の意味を問い返す間もなく、老人の眼は光を失い、塔の空気が急速に冷えていく。
だが、静寂は続かなかった。
その瞬間、通路の奥──ありえない場所から、空間が裂けた。
“それ”は音もなく現れ、黒い影のような姿で空間を滑るように突っ込んでくる。
「下がれ、カイ!」
リューは腕を前に出し、咄嗟に魔力の流れを制御する。
侵入者が放ったのは、稲妻のような呪文。高速で螺旋を描きながら直線的に迫る攻撃魔法だった。
一瞬で視覚に魔法式が焼きつく。
リューはその“構造”を正確に把握した。詠唱、発動角、魔力の振動数、そして収束方法。
何かを呟いた次の瞬間、リューの手からまったく同じ魔法が放たれる。侵入者の魔法と軌道すら一致したそれは、数秒遅れの“同型弾”として一直線に走った。
――激突。
空気が震え、爆ぜるような反響の中で、侵入者の身体が大きく揺れる。
動揺したようにその姿の輪郭が乱れ、直後、霧のように空間に溶け込んで消えていった。
静寂が戻る。
リューは肩で息をしながら、足元の老人の亡骸を見下ろした。
「……魔法なんて、二度と使うつもりはなかった」
その声には怒りも嘆きもなかった。ただ、遠い過去の痛みがにじんでいた。
「“泥棒”と呼ばれて、笑われた日々があった。まるで、自分では何も生み出せないと決めつけるように──」
カイは、何も言えずに立ち尽くしていた。
リューがただの塔の管理人ではないことは、薄々感じていた。けれど、いま見たものは、それとはまったく違った。
自分の知る“魔法”とは、まるで別のものがそこにあった。
老人の部屋を探索していたカイが、崩れた棚の裏から一冊のノートを見つけた。
表紙は革張りで、魔力に反応する封印が施されていた。リューが軽く魔力を流し込むと、パチンという音とともに留め具が外れた。
中には、細かい字でびっしりと記述が並んでいる。
「……この筆跡……」
ページをめくっていくうち、ある名前がリューの目に止まった。
かつての師の名前。自分に魔法の基礎を教え、最も信頼していた存在。だが、十数年前に忽然と姿を消した。
ノートにはこう書かれていた。
>『この塔の結界は、ゼノンによって設計された。封印は二重構造であり、鍵を“封ずる者”と“解く者”のふたりが必要。塔を守る者は、あくまで“外枠”であり、真の封印の発動には関与できない』
「……俺は、“外”を守らされていたのか……」
ノートを閉じ、リューは深く息をついた。
このまま塔にとどまっていても、真実には届かない。塔の設計者であり、今なお“鍵”の一端を握る師の居場所を探す必要がある――そう、はっきりと理解した。
その夜、リューは荷をまとめた。旅に出ると決めた以上、塔を離れなければならない。
そして、カイを残していくことも。
「お前はここに残れ。ここなら安全だ。塔がまだ持ちこたえている限りはな」
そう告げたとき、カイは何も言わなかった。ただ、どこか寂しそうにリューを見上げていた。
翌朝、森の外れまで歩いたリューは、背後に気配を感じて立ち止まった。
振り返ると、カイが肩から荷物をぶら下げ、黙って立っていた。
「……なぜ来た」
「わかりません。でも、リューさんが塔を出ていくのに、俺がここに残る方が、ずっと怖い気がして」
リューはため息をつき、何も言わずに歩き出した。
カイは言葉もなく、その後ろを静かに追いかけた。
塔が見えなくなる頃、霧が晴れ、初めて太陽の光が差し込んだ。