第五節「旅立ち──ドーエ川へ」
霧雨のような粒子が立ちこめる地表に、リューはゆっくりと足を踏み出した。
外気は鋭く、人工の大気では補えない乾いた感覚が肌を刺す。地上世界──それは、彼がかつて生きていたノアとは似ても似つかぬ、色の失われた荒野だった。灰色の空。崩れた高層ビルの影。草一本生えず、風の音すらどこか人工的だった。
「……空気が重いな」
リューは思わずつぶやき、胸の内に眠る魔力をそっと呼び起こしてみた。かつてなら、周囲の魔素を捉え、自在に編み込むことができたはずだった。
だが、今は違う。魔力の流れは鈍く、手にしたい術式は霞のように輪郭を結ばない。試しに小さな〈風刃〉を生み出そうと指先に集中を集める。数秒の沈黙の後、生まれたのは──まるで初学者のような、不安定な刃だった。
「これが……今の俺の力か」
自身の“魔法の核”が弱まっているという感覚。それは、単にこの世界の環境のせいだけではなかった。
後方の通信ユニットから、ゼノンの声が届く。
《魔法は、ただの記号では再現できない。お前の魂の記憶と“闘いの履歴”が必要だ。》
リューはその言葉の意味を思い出す。シミュレーション世界・ノアで、彼は幾多の強敵と対峙し、模倣魔法を極限まで鍛え上げた。敵の術を瞬時に写し取り、より鋭く、より正確に再構築する──その境地に至れたのは、敗北と傷と決断の果てだった。
だが今、地球に戻った彼の肉体は“魂のデータ”を移された存在に過ぎない。記憶はあれど、技術は封じられ、力は退化していた。
「取り戻すしかない……闘いの中で」
リューは手にした黒曜石のポッドを見つめた。これに満たすべきは、単なるエネルギーではない。戦いの記憶。魔法の真髄。それが、この世界に魔法を呼び戻すための鍵なのだ。
地図に記された目的地──ドーエ川。その底に、貪欲の竜・シグルズが眠っているという。ゼノンの言葉を信じるならば、彼のもとにはダークエネルギーの核が存在する。
だがそれは同時に、最も強大な敵と相まみえるということでもある。
「かつての俺なら……と思うが、それに甘えていてはきっと勝てない」
かつての力を誇るのではなく、今の力を鍛えるしかない。そう自らに言い聞かせながら、リューは瓦礫を踏み越えて進み出した。
道中、彼の目には異形の影が映る。巨大な羽根を引きずる神魔の群れ。廃都市の地下に潜む黒煙の獣。彼らは明らかにリューの存在に気づきつつも、今はまだ動こうとしない。ただ、遠巻きに、彼を観察していた。
「時間は……ないな」
リューは通信装置のレシーバーに触れ、ゼノンに呼びかけた。
「聞こえるか、師匠。ドーエ川へ向かう。途中の拠点には立ち寄らない。寄り道をしている時間はない」
《了解した。だが、お前の体はまだ完全ではない。慎重に動け。無理は──》
「無理は承知の上だ」
声を遮ってリューは歩を速めた。失った力を、取り戻すには“ぶつかる”しかない。そして、自身の魔法が通じるか否か、それを最初に試すにふさわしい相手が、ドーエ川の底で待っているのだ。
かつて英雄と呼ばれ、今は竜と化したシグルズ。
──ポッドを満たす最初の核。
──魔法の再生と、仲間の召喚。
そのすべてが、この“戦い”にかかっていた。
「俺は、あの世界から来た。人間がまだ夢を見ていた、世界から──」
リューは灰の舞う空を仰いだ。
「それを、もう一度この世界に取り戻す。それが、俺の役目だ」
そして、彼の歩みは、遠くうねる川の気配へと向けられていった。
ドーエ川の底に眠る試練が、彼を迎えようとしていた。




