第3節 蒼き結晶と影を纏う者 第4節 蒼き国の夜明け
魔力が尽きかけた身体を、執念だけで支えていた。
リューは膝をつき、荒い息を吐きながら、目前の巨体を睨み続ける。霧の山奥に潜む竜――その存在感は、まるで天災のようだった。
模倣魔法の連続行使で魔力は底を突きかけ、意識も霞み始めていた。再生の隙も与えられず、竜の吐息一つで全身が震える。結界は砕け、炎も雷も、水の刃すら効かなかった。
「……ここで終わるのか」
誰かの命を救うために、力を使うと決めた。逃げることだけを選ぶのはやめたのだ。
それなのに――
意識が落ちる。目の前の光が滲んで、蒼い空が混濁する。
――カイ。
――ヨハン。
その名を心で呼んだときだった。足元からすうっと冷たい空気が吹き上がり、霧が割れるように揺れた。
「……少しはマシになったか」
その声は、風のように静かで、鋭利だった。
影のように、いや――影そのもののように男が現れた。漆黒の衣をまとい、顔の下半分を布で覆っている。手には糸のように細い魔力の刃。背を向けたまま、リューを見ずに歩み出る。
「ザギ……」
リューが名をつぶやくと、ザギは片目だけでこちらを見返した。
「貸しだ」
ザギは宙へ跳躍し、竜の首元に向かって鋭い糸を放った。竜が吼え、周囲の霧が爆ぜる。空間が歪む。だが、ザギの動きはまるで重力を無視するかのように滑らかで、糸は確実に竜の神経を狙い、瞬間的に動きを止める。
その一瞬の静寂の中、ザギは竜の前に降り立ち、足元の岩を砕いた。
――そこにあったのは、蒼く脈動する結晶。
「……これが“アイリスの涙”」
ザギはその小さな欠片を摘み、ひとつだけリューの手に放った。
「…ヨハンのためか」
「なぜ……」リューはかすれた声で尋ねた。「なぜお前が、こんなことを……」
ザギは答えず、ゆっくりと背を向けた。
「守る……それだけだ」
そう言い残し、闇の霧へとその姿を溶かしていく。
リューはその背を追いかけなかった。ただ、手の中の結晶を強く握りしめた。
蒼い輝きが、脈打つ命のように、ぬくもりを返してくる。
* * *
ハイリオスに戻ったのは、翌日の朝だった。
ロサンジェラは駆け寄り、リューの傷だらけの身体を支えると同時に、結晶を見て目を見開いた。
「……まさか、本当に……」
老医師たちは驚愕しつつも、すぐに施術の準備に取り掛かった。
まずはカイに。続けて、ヨハンに。
アイリスの涙は、触れる者の魔力を再構築する不思議な力を持っていた。その結晶を核に、再編術が施される。
数時間後――。
「……リューさん」
カイが目を開き、微笑んだ。声はまだ弱かったが、確かにそこにはいつもの彼の光があった。
続いて、ヨハンがゆっくりと目を開ける。
瞳が蒼穹のように澄んでいた。
「お前が、持ってきたのか」
リューは頷いた。
「大事な仲間だ」
ヨハンは、しばらく言葉を探してから、ぽつりと呟いた。
「……俺は」
その言葉は、蒼い空とは真逆のように濡れていた。
第4節 蒼き国の夜明け
リューたちが滞在していたハイリオスの宿舎には、ようやく春の気配が戻っていた。
回復したカイはまだ寝台に座るのが精一杯ではあったが、その頬には赤みが戻り、言葉も以前のように冗談を言えるまでに回復していた。
「ロサンジェラさん、そんな怖い顔しないでくださいよ。俺、もう平気ですって……ほら、動け……!」
「ほら見なさい」
ロサンジェラが腰に手を当てる。「動いていいとは言ってないでしょ」
「は、はぁい……」
そんなやりとりを聞きながら、リューは窓の外、白い診療塔を静かに見つめていた。
あの塔の最上層――蒼穹賢の部屋から、今日も魔力の光がかすかに揺れていた。
* * *
昼下がり、リューとロサンジェラは、再びヨハンのもとを訪れた。
ヨハンは寝台から起き上がれるようになり、机の上には旧時代の医療文献がいくつも開かれていた。
「また理想を、探してるのか?」
リューの問いに、ヨハンはうっすらと笑った。
「ああ。今度は“共に歩く理想”を、な」
彼は水晶の杖を取り上げ、その先で机の地図を指す。
「この国の南部に、まだ医療の手が届かない集落がある。民間組織では対応しきれない地域だ。……少しずつ、そこから手を差し伸べてみようと思う」
かつてのように“すべてを救う”ことはできない。それでも、できる範囲から始める。
理想を掲げ直すその姿は、昔のヨハンとどこか違っていた。より静かで、より強い光を灯していた。
「お前に……感謝しているよ、リュー。あの結晶だけじゃない。お前が、俺の心を見捨てなかったことに」
リューは何も言わず、ただ頷いた。
「……じゃあ、俺たちは行くよ」
「目的地は?」
ロサンジェラが答えた。
「アベルが、妙な痕跡を見つけたらしいの」
ヨハンの目が細められる。
「“痕跡”……どういった?」
「強い光属性の魔力。しかも、人工的に制御された痕があったそうよ。」
「場所は、宗教国家ラグナ=リュミエール。光の信仰で知られる国か」
リューが呟く。
「師は……まだ、どこかで生きてる。そう思える何かが、ようやく見えてきた」
ヨハンは静かにうなずいた。そして、リューの手を取る。
「もし、またお前が誰かを救うために戦う時が来たら、俺もその一助になりたい。今度こそ、誰かを見捨てないために」
「その時は頼むよ、蒼穹賢」
ふたりの手が、しっかりと交わる。過去の誓いも、傷も、その手のぬくもりの中に溶けていった。
* * *
出発の朝、ハイリオスの町には早くも夏の気配が満ちていた。
カイはまだ完全ではなかったが、短い距離なら歩けるまでに回復していた。
その肩をロサンジェラが支えながら、町の外れへ向かう。
蒼穹の空の下――三人の旅は、再び始まる。
背後には、静かに手を振るヨハンの姿があった。




