第2節 崩れゆく命と一筋の光
ハイリオスに着いてから四日が経過した。
カイの容態は明らかに悪化していた。魔力の暴走は全身に及び、身体から漏れ出す光の粒が床に焦げ痕を残すようになっていた。意識はあるものの、言葉を発するたびに息が詰まり、短い会話すら困難になっている。
「……リューさん」
その声は弱々しく、かつて元気に塔を駆け回っていた少年の姿が、幻のように思えた。
「わかってる。大丈夫、必ず治す」
リューはその手をしっかりと握った。だが、その手の温もりが少しずつ失われていることに、誰よりも先に気づいていた。
ロサンジェラは毎晩、回復魔法を施していたが、その効力は一時的で、今では抑えすら効かなくなっていた。
「限界が近い……」とロサンジェラは呟く。「このままだと、魔力に自我を飲まれてしまうわ。彼の体も、心も、壊れてしまう」
リューはヨハンに再度面会を求めたが、応答はなかった。診療塔の門は固く閉ざされたまま。まるで、ヨハン自身がすべての感情に鍵をかけてしまったようだった。
* * *
そして五日目の朝――。
診療塔の鐘が、急報の合図とともに鳴り響いた。リューたちが駆けつけると、医師たちが慌ただしく走り回っていた。
「蒼穹賢が倒れた! 意識不明だ!」
その一言に、リューとロサンジェラは言葉を失った。診療塔の一室で横たわるヨハンは、まるで氷のように冷たく、魔力の循環が乱れ、身体の各所に裂傷のような痕が浮かび上がっていた。
「自己の魔力による過負荷……ここ数年、治療に自身の魔力を直接注いできた影響でしょう」
老医師の説明に、ロサンジェラが呆然と呟く。
「……誰よりも患者を救おうとして、誰よりも消耗していたのね」
ヨハンは心臓だけはまだ動いていた。しかし、魔力の枯渇と体内の破損により、あと数日も持たないという。
「唯一、可能性があるとすれば……」
老医師は逡巡の末、口を開いた。
「“アイリスの涙”を用いた再構築術です。魔力の源に触れ、失われた経路を再接続できれば……理論上は命を繋げられる」
「アイリスの涙」――それは伝説に語られる、純粋な魔力の結晶体。この世界で最も魔力密度の高い存在のひとつであり、“ドラゴンの涙”とも呼ばれている。
「場所は……?」
「幻霧山脈。南方の霧に覆われた山域に、かつて古竜が封印されたという伝承があります。ただし、近年は誰も近づかない。異常魔力の影響で、方向感覚すら狂う場所です」
老医師の言葉を聞き終える前に、リューは立ち上がっていた。
「待って! そんな無茶を……!」
ロサンジェラが止めようとしたが、リューの背はまっすぐだった。
「できることをするしかない…」
* * *
幻霧山脈――名前の通り、山全体が濃密な魔力の霧に包まれていた。霧は視界だけでなく、五感そのものを麻痺させ、時間の流れすら曖昧にしていた。
リューは結界魔法で自らの感覚を維持しながら、静かに進んだ。やがて、気配が変わった。
空気が焼けるように重たく、岩肌が黒く変色している。その中心に、巨大な影が現れた。
――それは竜だった。
黒曜の鱗を持ち、瞳に星を宿すような古き存在。その一睨みだけで、リューの脚が竦んだ。
竜の咆哮が大地を震わせる。直後、空間ごと歪むような衝撃がリューを襲った。反射的に魔法障壁を展開するが、竜の爪が擦っただけで亀裂が走る。
「……やるしかない!」
リューは模倣魔法を発動。かつてバルザックとの修行で身に刻んだ“煉獄の牙”を再現し、地面を滑るように接近、竜の前脚を狙って火柱を巻き上げた。
だが、次の瞬間――。
竜の身体から迸る水のような魔力が、炎を呑み込むと同時にリューを弾き飛ばした。霧が渦を巻き、視界と聴覚を奪っていく。空間すら敵になったような錯覚に陥る。
岩に叩きつけられた身体を無理に起こし、咳き込みながらリューは立ち上がる。
「……これほどとは……!」
竜は怒っていた。人の手が届かぬはずの“涙”を、誰かが求めていることに、そして侵入者がその禁域を踏み荒らしていることに。
リューは気づく。竜の身体に幾本かの裂傷がある。それは、過去に誰かが挑んだ爪痕か、あるいは自らを傷つけて得た“涙”の代償か。
竜が再び咆哮を上げた。天を裂くような咆哮とともに、その口から放たれた魔力の奔流が、リューの結界を完全に破壊する。
身体が焦げ、視界が白く霞む。模倣魔法の蓄積も限界に近かった。
それでもリューは膝をつかなかった。
「ここで、倒れるわけには……!」
そのとき、足元に光が走る。地面の裂け目から、一瞬だけ蒼い光が漏れ出た。
竜がそれに反応し、動きを止める。
リューはその隙を逃さず、一歩踏み出した。
竜とリュー――ふたつの魔力が交差する。
蒼穹の空が、音もなく震えた。




