第2節:揺らぐ静けさ
その朝、森はやけに静かだった。
風が止み、鳥の声すら遠ざかっている。霧が晴れる気配もなく、薄暗さだけが、ゆっくりと塔の周囲を染めていた。
「今日はあまり森に入らない方がいいかもしれないな」
暖炉の前で手を温めながら、リューが呟いた。
その声にカイは顔を上げ、少し考えるような目をした。
「昨日のうちに近場の薪はほとんど集めました。でも、まだ少しは結界の内側に残ってると思います。深くは入りません、約束します」
リューはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「なら、気をつけて行ってこい。風の向きが急に変わったら、それ以上は進むな」
「分かってます」
カイは短く答え、外套を羽織って扉を開いた。
冷えた空気が塔の中に流れ込み、一瞬だけ薬草の香りが霧の匂いにかき消された。
森へ出たカイは、足元に注意を払いながら歩を進めた。
結界の内側には、幾つかの石が埋められていて、それぞれには古代語で“護”の紋が刻まれている。リュー曰く、それは結界の“杭”のような役割を果たしており、そこを超えると塔を覆う守りが失われるという。
(今日は、音が……少ない)
森を歩くうちに、カイはふと足を止めた。耳を澄ませると、遠くの梢の揺れすら聞こえない。ただ、何かが地の奥でかすかに鳴っているような──そんな錯覚を覚えた。
ほどなくして、一つの結界石にたどり着く。苔むしていた表面が、いつになく露わになっていることに気づく。手をかざすと、石の紋がわずかに光り、空気が波打つような感覚が生まれた。
──その瞬間。
空間が、ごく僅かに“ゆらいだ”。
目には見えないが、耳の奥に圧迫感が走る。何かが、遠くで鈍くひび割れたような音がした。
カイは反射的に手を引っ込め、何歩か後ずさる。
「……なに、今の」
思わず口に出た声も、すぐに霧に呑まれた。
塔へ戻ったカイは、玄関の扉を開けた瞬間、ただならぬ空気を感じた。
リューが階段に腰を下ろし、額に手を当てている。
「リューさん……?」
「……少し、頭が重い。大したことはない」
リューはそう答えたが、顔色はどこか冴えなかった。普段は不調を口にしない彼が、こうして休んでいるのは珍しい。
「下の……老人は?」
「さっき来ていた。何も言わずに入ってきて、“風が割れておる”とだけ言って、帰っていった」
「風が……?」
カイは階段の上から、塔の下層を見下ろした。
“下にいる老人”──彼の名前は知らない。塔の地下に近い一室に住んでいて、リューを雇ったのもその男だった。
それ以来、塔の全てに口を出すわけでもなく、時折、朧げな言葉を投げかけては去っていく。まるで、何かを“待っている”ように。
リューはゆっくりと立ち上がった。具合が悪いといいながらも、表情に焦りはない。だが、その静けさの裏にあるものを、カイは感じ取っていた。
「何かが……変わり始めているのかもしれない。けれど、それが何なのか……俺にも分からない」
言い終えたあと、リューは苦笑した。
自分が塔を守っている理由すら知らない。なのに、こんな言葉しか出てこないのが、少し情けなく思えた。
「でも、雇われている以上、ここを離れるわけにはいかないな」
「……はい」
カイはリューの言葉に頷いたが、胸の奥に言い知れぬざわめきを抱えていた。
夜。塔の空気は冷たく澄み、暖炉の火が壁に揺らぎを落としていた。
カイは珍しく眠りが浅く、何度も寝返りを打っていた。
うわごとのように、何かを呟く。聞き取れたのは「崩れる」「塔」「誰かが来る」──そんな断片的な言葉だった。
リューは物音に気づいて部屋を覗き、寝台のそばに立つ。
その小さな身体から放たれる微かな魔力の気配が、空間の奥でゆらめいている。
(やはり、何か……あるのか)
彼は机に戻り、例の手帳を開いた。かつて自分が出会った魔法の記録。それらを記すことに、どれほどの意味があるのか分からない。ただ、何かを確かめるようにページをめくり、すぐに閉じる。
窓を開けると、空に星が散っていた。
その星の一部──塔の上空を巡る一連の輝きが、微かに軌道を変えていた。
「……あの老人、何か知ってるのか」
誰にともなく呟きながら、リューは夜空に目を向けていた。