梅雨時の日本で試したかった酒肴の組み合わせ
挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」と「Ainova AI」と「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
六月に入っていよいよ全国的に梅雨入りしたのか、週間天気予報にも雨傘マークが並ぶようになったね。
私こと蒲生希望が住む近畿地方も、ここ最近は雨天の日が続くようになったよ。
こういう梅雨シーズンになると、大学まで電車通学している実家住まいという身の上が改めて辛くなるよ。
何しろ実家から最寄り駅までの道中でずぶ濡れになる危険を冒さなくちゃいけないし、ラッシュ時の電車内では誰かの傘の水滴で服が濡れるかも知れないからね。
大学に着いたら着いたで濡れた傘の扱いにも困る訳だし、本当に憂鬱だよ。
こういう時は、ゼミ友の王美竜さんが改めて羨ましくなるなぁ。
何しろ中華民国の台南市出身の王美竜さんは堺県立大学に留学生として在籍しており、必然的に県立大学から程近い女子学生専用の賃貸マンションに下宿しているのだから。
「雨の止み間や比較的穏やかなタイミングを見計らって通学出来るのも、美竜さんみたいな下宿生活のメリットだよね。」
そう言う具合に羨ましさを語ったんだけど…
「確かに下宿先から県立大までは目と鼻の先だけど、やっぱり私としても日本の梅雨は憂鬱だよ。何しろ台湾での常識が通じない事が多いからね。」
こんな風に返されちゃったんだ。
「何しろ台湾の梅雨はスコールみたいにザッと降ってすぐに止むけど、日本の梅雨はシトシトとした長雨が延々と続くじゃない。下手したら一日中降る事もあるでしょ?」
「そっか…美竜さんの実家がある台南市は熱帯気候だもんね。」
短時間に纏めて大雨の降るスコールなら晴れ間に出かけられるけど、一日中降り続く日本の梅雨だと話が違ってくるからね。
そうして日差しが全く拝めない日が続けば、鬱々しちゃうだろうな。
「それに日本の町には騎楼がないからね。傘で凌げない雨が降っても、屋内に入らなきゃ逃げ込めない事が多いじゃない。」
「騎楼って、あの歩道に張り出したアーケードみたいな物の事?あれって便利だよね。」
日差しが強くてスコールみたいな大雨が定期的に降る台湾では、建物の二階部分が歩道に張り出していてアーケードみたいになっているんだ。
二階部分が一階部分に騎乗しているように見えるから、「騎楼」って言うんだって。
美竜さんからこの話を聞いた時、私は「台湾が羨ましいなぁ…」と心の底から思った物だよ。
日本の歩道にもアーケードみたいなのがあれば、六月の長雨も夏場の直射日光も怖くないね。
「昔から『平生眼中になし』とは言うけど、物の有り難みは離れてみて初めて分かる物かも知れないと改めて実感した次第だよ。私も日本に来て、『今まで私は、騎楼の傘の下に守られていたんだ。』って改めて痛感させられたなぁ…」
「傘を使わなくて済むよう作られた騎楼なのに、何とも皮肉な話だよね。」
こんな軽口を叩いた所で、梅雨の長雨がそう簡単に上がる訳はない。
分かっちゃいるけど、冗談めかしてみなきゃ気分まで塞いじゃうよ。
何しろ来月末には試験だのレポートだのが目白押しなのだから、萎えてちゃ話にならないって。
来たるべき前期の試験期間を乗り切って楽しい夏休みを迎える為にも、このジメジメした梅雨の憂鬱モードを払拭しなければならない。
そこで履修している講義を無事にこなした私達は、学生街で軒を連ねている居酒屋の一軒にしけ込んだんだ。
「う〜ん、効くぅ!やっぱり今の時期は、よく冷えたビールが身体に染みるなぁ…」
中ジョッキをカウンターに置きながら、私は思わず溜め息を漏らしちゃったの。
爽やかに弾ける炭酸の泡とポップの苦味とが、まだ舌に残っているね。
五臓六腑に染み渡るとは、まさしくこの事だよ。
「蒲生さんも美味しそうに飲むね、今度は一緒にビアガーデンにでも行ってみようよ。」
楽しそうに笑う美竜さんだけど、そういう割に彼女はビールを頼んではいなかったの。
代わりにオーダーしたのは、この堺県の地酒である「堺衆」の純米濃厚タイプだったんだ。
流石に冷や酒ではあったけれど、どういう風の吹き回しなんだろう。
だけど台湾出身のゼミ友の思惑は、すぐに明らかになったんだ。
「お待たせしました、ゴルゴンゾーラのクラッカー添えで御座います。」
「えっ、ゴルゴンゾーラ?」
何と美竜さんが端末でオーダーした肴は、青カビのビッシリ生えたブルーチーズだったんだ。
ゴルゴンゾーラが放つ猛烈な発酵臭もさる事ながら、それが純和風の日本酒と並んでカウンターに鎮座しているのは不思議な光景だったよ。
「これはまた珍妙な取り合わせだね、美竜さん。ゴルゴンゾーラを合わせるなら、赤ワインやポートワインが相場だと思うけど。」
「と思うよね、蒲生さんも。だけどチーズと日本酒って意外と合うんだよ。何しろどちらも発酵食品だし、ある意味では今の時期に合わせて食べた方が良いのかも知れないと思ってね。」
今の時期って、どういう事だろう?
ゴルゴンゾーラを始めとするブルーチーズの旬は、秋頃だと聞いた事があるけど…
「ゴルゴンゾーラの青カビに、日本酒の麹菌。形は違うけれど、どちらもカビの一種だからね。この梅雨シーズンはカビ対策に力を入れなくちゃいけない訳だから、こうして呑んでかかって打ち勝とうって寸法だよ。」
「ああ、カビ対策…」
成る程、そういう事だったんだね。
要するに試験前にトンカツやウインナーを食べるような、験担ぎのような趣向だったんだ。
「それに幾らカビ対策とは言え、あんまりカビの事を邪険にし過ぎても罰が当たりそうだと思ってね。そこで『人間に有益なカビなら受け入れますよ』ってアピールをしておくのも、悪くないかなって…おっと!」
「ちょっと!どうしたの、美竜さん…」
さっきまで饒舌だったのに、いきなり口を押さえちゃうんだもの。
そりゃ驚いちゃうって。
だけどそんな私の疑問も、ハイボールを持ってきた店員さんのお陰で即座に氷解したんだ。
「よし、これで大丈夫!悪いね、蒲生さん。ちょっと口の中をリセットしたくって。」
面目なさそうに頭をかく美竜さんの口から漂うのは、スモーキーなウイスキーな芳香とレモンの柑橘系の香りだけだったの。
どうやらハイボールを頼んだのは、ゴルゴンゾーラの匂いをマスキングしたかったからなんだね。
「成る程、ハイボールで口臭を消したって寸法か!それならキョンシーが現れても大丈夫だね。」
「おっ、蒲生さんもよく分かってるじゃないの!何しろ並のキョンシーは息の匂いで人間を探知するから、口臭があると命取りになっちゃうんだよ。」
台湾で生まれ育ったという来歴もあってか、美竜さんはキョンシーというキーワードに敏感だ。
何しろ大学祭の時には、キョンシーに扮した美竜さんと組んで漫才をやったんだからね。
んっ、待てよ…
「ねえ、美竜さん。このジメジメとカビ臭い今の時期って、キョンシーはどうしているんだろうね?」
「おっ、それ聞いちゃう?私が思うに、意外とキョンシーは憂鬱な梅雨シーズンを楽しんでいるかも知れないよ!」
予想通りと言うべきか、それ以上と言うべきか。
美竜さんったら、黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせて身を乗り出してくるんだから。
「何しろキョンシーは陰の気である魄だけが入った、究極の陰キャというべき存在だからね。」
「いやいや、『陽キャ』と『陰キャ』は道教の考えに基づいている訳じゃないから!最初に言い出した人、そこまで考えてないと思うよ!」
美竜さんのボケに思わずツッコミを入れてしまった私だけど、そこには確かな心地良さがあったんだ。
どうやら私も美竜さんと同じく、大学祭で演じた漫才に味をしめているみたいだね。
「どうかな、美竜さん?またぞろキョンシー漫才と洒落込んでみない?厚生課の主催でパフォーマンス系のイベントもある事だし…」
「良いね、蒲生さん!ちょうどキョンシーの衣装もクリーニングから帰ってきたばかりだし、梅雨の憂鬱さを吹き飛ばせるような漫才と行こうじゃないの!」
ジメジメした梅雨の陰鬱さから、華やかで陽気な漫才のネタ出しへ。
私達二人の意識は陰から陽へと綺麗にシフトチェンジ出来ていたんだ。
とは言え、酔った勢いというのは恐ろしい物だよね。
「このジメジメした梅雨時って、死体の変化も早いと思うんだよね。だからキョンシーも気を付けないとカビが生えちゃうかも。」
「カビだけじゃ面白くないよ、蒲生さん!この際だからキノコも生やしちゃおうよ。それで冬虫夏草よろしく、脳に寄生したキノコがキョンシーを操っちゃうんだ。眼窩からも大きなキノコを生やしちゃってさ。」
こんな素面の時には出ないようなグロテスクな発想が、もう次々と出てきちゃうんだもの。
だけどハイテンションになった私達には、そんなのお構い無しだったの。
そう、あの時まではね。
「あの、お客様…」
「えっ…」
サッと顔を上げたタイミングで目が合ったのは、申し訳なさそうな顔をした店員さんだったの。
「お楽しみの所申し訳ありませんが、死体から生えるキノコの御話だけは御遠慮頂けませんでしょうか。当店としても、新メニューとして売り出し中で御座いますので…」
「あっ、これは…」
店員さんが指差した先にあるメニュー表には、マッシュルームのアヒージョが目立つ所に印刷されていたんだ。
幾らキノコキョンシーの話で盛り上がっていた私達でも、流石にこれを注文する気にはなれなかったね。