真の「悪役」令嬢は婚約破棄に叛逆の狼煙をあげる
神聖王国アルカディア王立学園の卒業式典を翌日に控えた、ある日の午後。
東部国境を護るヴァルキリー辺境伯の威厳ある長女、巴・ヴァルキリーは、己を取り巻く数人の令嬢たちの甲高い声に、内心辟易としていた。
彼女たちは、扇を忙しなく動かしながら、扇情的な噂話に興じている。
「巴様、信じられませんわ!明日の夜会、あのオスカー王子殿下が、リリアン・ディグレゴリオなどという成り上がりをエスコートなさるおつもりですって!」
「ええ、私も耳にいたしましたわ!西部の、しかも男爵風情の娘が、一体どのような手管を弄したのかしら!」
口々に憤慨する取り巻きたちに対し、巴はただ「そうか」と静かに応じるのみであった。
その黒曜石の如き瞳は、深淵を覗き込むように静謐で、些かも感情の揺らぎを見せない。しかし、令嬢たちは巴の沈黙を意に介さず、なおもリリアンへの誹謗中傷を続けようとした。
その時、廊下の向こうから近づいてくる長身の人影を認めると、彼女たちはまるで蜘蛛の子を散らすように、慌ただしくその場を離れていった。
現れたのは、東部の有力貴族ベルクシュタイン伯爵家の令息、ジークフリート・フォン・ベルクシュタインであった。風に遊ぶ野性的な黒髪、そして意志の強さを物語る力強い眼差しは、ただ巴一人にのみ、実直に向けられていた。
「騒がしい者たちであったな。まるで小鳥の囀りのようだ」
ジークフリートは苦笑を漏らした。
「いつものことだ。彼女たちの関心は、常に他人の不幸と栄達の噂にのみある」
巴もまた、微かに口の端を上げた。
短い挨拶の後、ジークフリートは声を潜め、真剣な面持ちで巴に告げた。
「巴、王陛下と王妃殿下は、現在訪問中のアルゴス帝国にて、外交上の問題により足止めを食らっておられるそうだ。 それ故、明日の式典にはご臨席かなわぬとのこと。
オスカー王子は、その権力の空白を好機と捉え、何か良からぬことを画策しているやもしれぬ、との情報がある」
巴は短く礼を述べ、その配慮に感謝したが、
「案ずるな。どのような事態であろうと、私が対処する」
と、静かながらも確固たる意志を込めて返した。
ジークフリートは、その言葉とは裏腹に、抑えきれぬ憤怒と懸念をその声に滲ませて言った。
「俺があの詩作に現を抜かすだけの愚昧な王子であったなら、決して貴殿にこのような不快な思いはさせぬものを。貴殿の価値を理解できぬとは、嘆かわしい限りだ」
「幼馴染の貴殿が傍にいてくれること、それだけで私はどれほど救われていることか。
貴殿の存在こそが、私の支えだ」
巴はそう言って、ジークフリートにだけ見せる柔らかな微笑みを向けた。
短い言葉を交わした後、二人はそれぞれの道へと別れた。
一人、夕陽に染まる長い廊下に佇み、巴は遠い日の記憶に意識を沈めた。
幼き日、領地で乗馬の訓練中に落馬し、頭部を強打した。その衝撃と共に、己が前世において源平の世を駆け抜けた武人、巴御前であったという鮮烈な記憶が、奔流の如く蘇ったのだ。
以来、貴族令嬢としての表向きの顔とは別に、武人としての魂に従い、密かに武術の鍛錬に明け暮れた。それは、この異世界では異端とされる格闘術、弓術、剣術に留まらず、更にはこの世界独自の力である魔法戦の基礎理論に至るまで、独学で修得するという過酷なものであった。
その孤独な研鑽の日々の中で、唯一心を許し、共に野山を駆け巡り、剣を交えたのがジークフリートであった。
やがて王命が下り、神聖王国アルカディアの国内勢力の均衡を保つという名目の下、第一王子オスカーとの婚約が整えられた。
数十年前の他国からの侵略に辺境伯の尚武がこの国を救い、王も辺境伯の血を入れることで王国の安寧を図ったのであった。
しかし、ここ十数年の平穏な日々は、かつての脅威を忘れ去ることになったのは皮肉であった。
オスカーは、女性と見紛うほどの滑らかな白い肌と金の髪を持ち、詩作を何よりも愛する、いかにも貴公子然とした優男であった。その姿は、かつて巴が知る京の公家たちを彷彿とさせたが、国の行く末を左右する政治や、民を守るための武芸には一切の興味を示さなかった。
巴はその軟弱さに常に物足りなさを感じていたが、ヴァルキリー辺境伯家の長女として、そして王国の安寧のためと、己の感情を殺して耐え忍ぶつもりであった。
件のリリアンなる娘を寵愛するのであれば、正式な妃としてではなく、側室にでも迎えれば良いと、既に割り切ってもいた。
しかし、その一方で、前世の主君、木曽義仲の勇猛果敢な面影を色濃く宿すジークフリートに対しては、武人としての魂が深く共鳴し、誰にも明かせぬ密やかな恋慕の情を抱き続けていたのである。
翌日、神聖王国アルカディア王立学園の卒業記念夜会は、王城の大広間にて、目も眩むばかりの絢爛たる雰囲気の内に始まった。シャンデリアの灯りが煌めき、楽団の奏でる優雅な音楽が流れ、着飾った貴族たちが談笑に興じている。
その喧騒の只中、第一王子オスカーは、まるで舞台役者のように芝居がかった仕草で、黒髪を一本に結い燃えるような真紅のドレスを纏った、周囲を圧する美少女である巴を呼び止めた。
そして、満座の注目が集まる中、彼は甲高い声で高らかに宣言した。
「巴・ヴァルキリー!神聖なるアルカディア王国の第一王子として、この場を以て貴様との婚約を破棄する!貴様のような野蛮にして陰湿な女、この清浄なる王国の妃に断じてふさわしくない!」
その傍らには、柔らかな桃色の髪を豊かに揺らし、今にも泣き出しそうな表情で庇護欲をそそるリリアン・ディグレゴリオが、オスカーの腕にしなだれかかっていた。
「巴様が、わたくしを…嫉妬のあまり、階段から突き落とそうとなされたのです…」
そのか細い声は、しかし計算され尽くしたものであった。彼女の隣には、虎視眈々とこの瞬間を待ち望んでいた巴の異母弟カインが、隠しきれない卑劣な笑みを浮かべて佇んでいる。
更に、リリアンに心酔しきっている騎士団長の息子アーノルド・フォン・グリム、魔術師団長の息子セフィロス・ユグドラシル、そして冷徹な計算高い宰相の息子ガレス・アウストロが、堰を切ったように口々に巴を糾弾し始めた。
「ヴァルキリー嬢の悪行は目に余る!」
「リリアン嬢への陰湿ないじめは許されざる行為だ!」
彼らの声は、オスカーの言葉を増幅させ、巴を悪女へと仕立て上げようとしていた。
極めつけにオスカーは、巴がジークフリートと密通し、不貞を働いていたという、全く根も葉もない嘘を吐き捨てた。
王子の号令一下、武装した数名の近衛兵が、巴を捕縛せんと威圧的に迫る。
しかし、巴は微動だにしなかった。その瞳は、まるで嵐の前の静けさを湛えた海の如く、深く、そして底知れぬ光を宿していた。
前日、ジークフリートからもたらされた警告により、彼女は既にこの卑劣な罠を予期していた。
そして、万一の事態に備え、自領ヴァルキリーより選りすぐった精鋭の家臣たちを、夜会の会場の外に密かに待機させていたのである。
兵士の一人が、無造作に巴の腕を掴まんとした刹那、巴の身体が残像を残して閃いた。その両の掌は、まるで鋼鉄の万力のように兵士の首を左右から挟み込み、凄まじい力で締め上げた。頸椎が砕ける鈍く湿った音が、喧騒を一瞬にして凍りつかせた。兵士は声もなくその場に崩れ落ちた。
「縊り殺す」――それは、前世において彼女が数多の敵を屠ってきた、恐るべき絞殺技の一つであった。
即座に、斃れた兵士から長剣を奪い取った巴は、血も凍るような憎悪に満ちた眼差しで、顔面蒼白となったカインを射抜いた。
「たばかったな、愚弟よ。わらわを陥れて栄達を望もうとは、その浅慮、片腹痛いわ。骨肉相食む修羅の道においては、わらわが貴様の遥か先達ぞ」
返答を待つことなく、巴は疾風の如く間合いを詰めた。呆然と立ち尽くすカインの腹部を、その鋭利な剣先が、深々と、そして容赦なく貫いた。カインは人間とは思えぬ甲高い絶叫と共に、大量の血反吐を吹き上げ、無様に床に斃れた。
「巴!貴様、何を血迷ったか!この逆賊めが!」
憤怒に顔を真紅に染めたアーノルドが、大剣を抜き放ち、猪武者の如く突進してくる。
ほぼ同時に、魔術師団長の息子セフィロスが、巴に向けて殺意のこもった魔術の詠唱を開始した。
しかし、巴は既に彼らの単純な動きを完全に読み切っていた。アーノルドの猛進を紙一重で避け、その屈強な背後に瞬時に回り込むと、彼の身体をまるで盾にするように、その心臓目掛けて剣で刺し貫いた。直後、セフィロスの放った灼熱の魔術の奔流が、アーノルドの背中に無慈悲に炸裂した。魔力の閃光と肉の焦げる臭い、そしてアーノルドの断末魔の悲鳴が、大広間に交錯した。
己の魔術が仲間を殺めたという衝撃的な事実に、セフィロスは動揺し、その動きが一瞬完全に停止した。
その僅かな隙を見逃す巴ではなかった。
血に濡れた剣が、閃光のようにセフィロスの胸を正確に貫いた。
会場は、恐怖と混乱、そして悲鳴の坩堝と化していた。華やかな装飾は血に汚れ、芳しい香水の匂いは死臭に取って代わられようとしていた。その地獄絵図の中で、ただ二人、巴とジークフリートだけが、氷のような冷静さを保っていた。
巴は剣に付着した血糊を鋭く振り払い、恐怖に顔を引きつらせて逃げ惑うガレスとオスカーの足を、それぞれ一閃のもとに斬り裂いた。骨が砕ける鈍い音と、甲高い悲鳴が重なり、二人は床に醜く倒れ伏し、痛みと屈辱と恐怖に歪んだ、獣のような呻き声を上げた。
足を斬り落とされ、血の海の中でもがき苦しむオスカーの豪奢な衣装の襟首を無造作に掴み、まるで汚物でも引きずるようにして、巴は血に濡れた剣を天高く突き上げ、その声は雷鳴の如く、大広間の隅々まで轟き渡った。
「爺!ヴァルキリー辺境伯に告げよ!謀反である!
王は、この期に及んで我らとの血の盟約を一方的に破ったぞ!
ヴァルキリーの兵は、直ちに自領に戻り、総力を挙げて戦支度を整えよ!」
その言葉は、反撃の狼煙であった。その絶叫を合図に、会場の外で息を潜めて待機していたヴァルキリー辺境伯家の精鋭家臣団が、鬨の声を上げながら雪崩れ込んできた。彼らは歴戦の勇士であり、その瞳には一切の躊躇も慈悲もなかった。リリアンやディグレゴリオ男爵に連なる西部の貴族たち、そしてオスカーに与する者たちに容赦なく斬りかかり、瞬く間に会場は血と肉片が飛び散る阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
巴と、彼女の傍らにいつの間にか駆けつけていたジークフリートは、絶叫し続けるオスカーと、意識を失いかけているガレスを引きずりながら、王都に構えるヴァルキリー家の屋敷へと、整然と撤退を開始した。
リリアンは、ただ腰を抜かし、恐怖に震えながらその光景を見つめることしかできず、その父ディグレゴリオ男爵は、「何故だ…何故この段階で…我が計画は、まだ…早すぎる…」と、血の気を失った顔で絶望的な言葉を繰り返すのみであった。
西方のアルゴス帝国と通じ、娘リリアンを焚きつけ、王子オスカーを取り込み、王国を内から食い破る謀略は未だ道半ばであった。
屋敷に到着するや否や、武装を整えた屈強な騎馬の一隊が、松明を掲げて疾風の如く出撃した。彼らは王都の主要各所に次々と火を放ち、夜空を赤黒く染め上げながら、東境ヴァルキリーを目指して疾駆を開始した。
その先頭には、漆黒の軍馬に跨り、血染めの剣を携えた巴の姿があった。そして、その隣には、己の信念に従い、迷いなく彼女を信じ、共に叛逆という修羅の道を選んだジークフリートが、誇らしげに、そして頼もしく轡を並べていた。
背後で燃え盛る王都の紅蓮の炎と、遠く立ち昇る死闘の狼煙、そして焦げ付くような魔力の残滓の匂いが、新たな時代の幕開けを告げていた。巴は、隣を駆けるジークフリートと顔を見合わせ、満足げに、そしてどこか愉悦に満ちた獰猛な笑みを浮かべた。
「貴族どもの退屈極まる茶番は、ようやく終わりを告げた。
どうやら、また活気あふれる戦国の世が戻ってきたようだな」
その言葉に、ジークフリートもまた、野性的な、しかしどこか嬉々とした力強い笑みを返した。
前世で慣れ親しんだ、血と鉄、そして死の匂いが立ち込める乱世の息吹。
それを全身で感じ、巴は転生して初めて、心の奥底から湧き上がるような真の自由と、血湧き肉躍るような凄絶な喜びを感じていた。
領地に戻り、ジークフリートと共にこの剣を携え、再びこの腐敗した王都を奪還するのだ。
これから始まるであろう、血と裏切り、そして殺戮に彩られた過酷な日々を想い、彼女の武人としての魂は、嘗てないほど高らかに、そして猛々しく鬨の声を上げていた。
やっぱ、「悪役」令嬢はこれくらいしないと、いけないと思います。
真のダーリンと結ばれてハッピーエンドですばい。