19.あの頃
「はあっ、はぁっ!」
「ピーター、あなたも歳をとったのね。それとも運動不足かしら?」
ピーター主教は奥屋の近くにあった小さな荷車を引いていた。荷車には毛布が一枚敷いてあり、その上には大聖女ダイアナが座っている。
奥屋の外までは大聖女をおぶっていたピーターだが、流石に彼ももういい年だ。体力が続かないと判断して、やむを得ずこのような形になった。荷車など子供の時以来引いたこともなかったので、大聖堂の敷地を出たあたりで既に息は上がり、汗が吹き出ていた。
「ハァ、ハァ。明日からは、女神様へのお祈りと一緒に、ハァ、運動することにいたします」
「そうしなさい。健康は大切よ。そうでないと私のように、みんなに迷惑をかけることになるわ」
ピーターは苦しそうだが、荷車の上の大聖女も話すだけで精一杯に見える。体力が衰え、もはや声を出すだけでも口から命が漏れ出ているようだ。それでも話し声は穏やかで、久しぶりの外出を楽しんでいるようだった。
荷車を引く老人と、荷車に乗った老婆。月明かりに照らされて、二人の法衣が青白く輝く様子は物悲しい。ふと、ピーターは子供の頃のことを思い出した。
「孤児院にいた時、みんなで荷車を引いたことがありましたね。たしか、畑で収穫した作物を売り回ったのでした」
「……懐かしいわねぇ」
ピーター主教がまだ8歳か9歳か、そんな頃の話だ。神聖教の孤児院に引き取られたピーターは、そこでダイアナーーまだその当時は聖女ではなく、ただの神官だったーーと出会った。
「あの頃はまだ、この都市もそれほど人が多くなかったわね」
大聖女は目を閉じながらしゃべっている。遠い昔をまぶたに思い浮かべているのか、あるいはもう、目を開けていられないほど衰弱しているのか。
「貧しかったけど、住んでいる信者はみーんな、家族みたいに暮らしてたわ。
孤児院は大変だろうって、町の人が荷車に乗せていた野菜を物々交換してくれて。
帰る頃には小麦や洋服が荷車に乗らないくらいだった」
「あの時いただいた洋服は、実はまだ残してあるんです。それを見ると、神官を目指した時の気持ちに立ち返れますから」
ピーターも懐かしい声で答える。孤児たちに献身的に世話をするダイアナを見て、ピーターは神官になることを決意した。
それからしばらくして、ダイアナは孤児院にはこなくなってしまった。女神シーラの神託を受け、聖女となったためだ。
「私がシーラ様の御神託をいただいてから、どんどん信者が増えて……。女神様の教えが広がって、嬉しかったわ」
「ダイアナ様が女神さまから癒しの奇跡を賜ったと聞いて、当時は私もとても誇らしかった」
足は悲鳴を上げて、手の力ももうなくなりつつあるが、ピーター主教は荷車を押し続ける。体は疲労が激しいが、楽しかった頃の思い出が、彼の心を弾ませた。
ただ、大聖女の次の言葉は、悲しみに満ちていた。
「どうして……みんな変わってしまったのかしらね」
みんな、とは言ったが、自分も含めた主教たちのことを言っているのだろう。
神聖教の信者が増え、組織が大きくなるにつれ、皆を導く役割の神官に階層が生まれていった。最初は多くの信者を救うために集めていた寄付が、いつの間にか寄付を集めることそれ自体を目的とするように変わってしまった。
「私が、もっとしっかり女神様の教えを実践できていればよかったのに……」
大聖女はこの状況すら、他人を責めることなく、自分の中に至らぬ点を見出している。あぁ、やはり彼女は大いなる聖女なのだと、ピーター主教は感じた。
「申し訳ありません。心をただすべきは私の方です。ここから、初めから、もう一度やり直します」
と、その時、爆発音とともにブリストン大聖堂が崩れ去り、中から黒い雲のようなものが吹き上がってきた。クレイグ主教の呼び出した、魔族だろう。
「だ、大聖女様!大聖堂が!!」
大聖女も、この邪悪な気配を感じ取ったのだろう。険しい顔でうろたえるピーターに話しかける。
「ピーター。私はもう時間が無くなってしまったわ。これからはあなたが、女神様の教えを説いていくのよ」
もう、大聖女の声は消えてしまいそうだ。
「それから、もう一つお願いがあるの。ユーベルに伝えてほしいことが……」
その時、脇道から何かが飛び出してきた。
「ギェェェェェッ!!」
黒い羽を生やした悪魔だ。羽ばたいているように見えるが、それとは関係なく宙に浮いている。そのせいで、足音もせずこちらに近づいてきたのだ。
「魔族……もうこんなところまで!?」
今来た方向へ荷車を反転させ、逃げようとするピーター主教だが、魔族の動きの方がはるかに速い。滑るようにこちらに近づくと、鋭い爪をこちらに向ける。ピーターが荷車を引いているため、後ろから追いつかれれば大聖女が先に餌食になってしまう。
「ハァッ、ハァッ、大聖女様っ!!」
もうだめだとピーター主教が大聖女に覆いかぶさり、盾となろうとしたその時。
ビシュッ!!
突然、魔族の胴体を触手のようなものが貫いた。
「!?」
いったいどうなっているのか、把握できないピーター主教が呆然としていると、魔族は最後の力を振り絞り、不快な叫び声をあげた。
「ギィィィィイィィイィィィ!!」
そのまま、魔族は力尽きたのか体を崩壊させて消えていき、残された触手はするすると戻っていった。
「大聖女様!」
「この声は……」
魔族の代わりに姿を現したのは、ユーベルだった。
正直、ピーター主教は彼女の正体については詳しくは知らなかった。しかし、先ほどの触手は彼女なのだろうということは容易に想像できた。
「大聖女様!ご無事ですか!!?」
走ってきたユーベルは、ピーター主教など眼中にないようだった。
「……ユーベル」
ユーベルは大聖女の手を取る。その間にも、大聖堂の方から先ほどの魔族と同じような叫び声と、住人の恐怖の悲鳴が聞こえてくる。クレイグ主教が召喚した魔族は、一体だけではないのだろう。恐怖の声が広がっているのが、ここからでもわかる。
「大聖女様、ごめんなさい……私……」
ユーベルの謝罪を打ち切って、大聖女が絞り出すように声を出した。
「ユーベル。ここにいてはダメ。早く逃げなさい」
「そんな……大聖女様も一緒ではないと嫌です!」
また、あの魔族の不快な叫び声が近づいてきた。先ほどの魔族が出てきた路地だけでなく、他の通路からも。あの魔族が死に際に発した叫び声は仲間を呼ぶためのものだったのか、魔族は次から次へと姿を現す。
「大聖女様、ユーベル! ここを離れなければ!!」
ピーターは叫ぶ。もう一秒も無駄にはできない。
「大聖女様……」
「ユーベル!荷車を押すんだ!早く!」
大聖女の手を離したユーベルは、初めてピーター主教に視線を向けた。
「ピーター主教、大聖女様をお願いします」
「ユーベル、君は……?」
「私が、時間を稼ぎます。早く、遠くへ逃げてください!」
同時に、荷車の両側から迫る魔族の頭蓋に、ユーベルから伸びた触手が突き刺さる。頭部を破壊されたにも関わらず、魔族はまた、最後のあの叫び声をあげた。
「ギィィィィイィィイィィィ!!」
さらに後方から来ていた魔族は、叫び声をきいてこちらに来る速度を上げたようだった。さらには叫び声に吸い寄せられるように、どんどんと魔族が湧き出してくる。
「大聖堂とは逆の方へ早く移動して!ここは私に任せて!」
ユーベルの声に、ピーター主教は我に返り、荷車の持ちてに力を入れる。もう足も腕も限界だが、アレに追いつかれれば終わりだ。ユーベルがどれだけ魔族を抑えられるのかもわからない。
「ハァッ、ハァッ」
ピーター主教は全力で足を動かす。後ろから悪魔たちの断末魔が聞こえてくる。ユーベルが侵攻を防いでいるのだろう。
突然、どこから回り込んできたのか、荷車の前にも悪魔が飛び出してきた。すでに市街に入り込んでいて、あの叫び声に誘われて戻ってきたのだ。
「あぁ……女神様!」
武器も持たない、年老いた神官には、もう女神様に祈ることくらいしかできない。もう……おしまいだ。
「大聖女様!!ダメーーーーー!!!」
ユーベルの叫び声が聞こえる。こちらの状況に気づいたのだろうが、間に合うまい。
目の前の悪魔が、爪を振り下ろした。
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