10.忍び込むサイラス
夜。サイラスはブリストン大聖堂裏の中庭に来ていた。もう少し進むと奥屋の目的の部屋にたどり着く。昼間の間に大聖女がいるという部屋の場所は確認しておいた。
「ふっふ〜ん♪ 古い建物は忍び込みやすくていいっスね」
パーセル公爵の邸宅は、金にものを言わせて雇った傭兵がそこかしこにうろついていたが、大聖堂は違っている。
そもそも、こんなところに忍び込んだところで、何か財宝が手に入るわけではない。忍び込む者がいなければ、警備も特に不要という訳だ。
「さて、大聖女様にお会いしましょうかね!」
親子を癒した時にみた手は、まるで二十代かと思うようなシワ一つない肌をしていた。素顔はどれほどお美しいのだろうと、サイラスの期待は勝手に膨らんでいた。
ガタッ。
外から窓を開けてカーテンを開けると、大きなベッドが月明かりに照らされている。ベッドには横たわる女性がいるようだった。この方が大聖女なのだろう。
「どなた?」
サイラスが部屋に入ると、大聖女はすでに目を覚ましていたようだった。一瞬焦ったが、大声をあげないところからして、「会話の余地あり」だ。
「こんな時間に失礼いたします大聖女ダイアナ・マクナイト様。帝国王位継承権第四位、ウィルフォード殿下の配下のものでございます。証拠の王族の印章はこちらに」
「あら、これは驚いたわ。次期皇帝候補が、こんな老婆に何の御用でしょうか?」
「老婆だなんてご謙遜を。先日拝見した大聖女様の指先は肌のはり・つやも麗しく、紺色のブレスレットがよく映える……って本当にバアさんだ!?」
近づいて手を取り、思わず声をあげてしまったサイラスは、慌てて周囲を伺う。よかった。人の気配はない。
「ふふふ。どこかでお会いしたことなんて、あったかしら?」
いくら王族の配下と言い張ったところで、夜中に窓から侵入してきた輩と軽口を言い合うとは、大聖女とやらはどれほど肝が座っているのだろう。しかし口調とは違って、一言話すだけでも苦しそうに肩で息をしている。
「気分がすぐれないのではありませんか?大丈夫ですか?」
「そうね。もうしばらく部屋にこもりきりで。だからあなたと出会う機会はなかったと思いますよ」
では、あの親子を癒した時に見た手は、いったい誰のものだったのか。
「実は先日、私の連れに大聖女様の癒しの奇跡を施していただきました。その時みた手は、もっと若かった記憶があったのですが……」
一瞬静寂があり、大聖女は、ふぅ。と深く息を吐くと、辛そうに話し始めた。
「その子は私の娘、ユーベルでしょう。彼女は女神様から奇跡を賜ったわけではないのですが、人々を癒す力を持っていますから」
「そんな……俺が会いに行くべきは、大聖女様ではなくユーベルさんだった……?」
当初の目的を忘れかけているサイラスだが、今はツッコミ役がいない。さいわい今回に限って、たまたま彼の思考は当初の目的へと戻ってきた。
「では、なぜユーベルさんが大聖女の真似事を?」
「私のせいです。あの子なりに、私を助けようとしたのでしょう。体調を崩して以来、大聖女の活動が滞ってはいけないと、ユーベルがこっそり私の代わりをするようになったようなのです」
「それは、素晴らしいことじゃないスか?」
「でも、大聖女を偽るなど、教徒たちの信仰を裏切る行為。彼女はそのことを私に一言も言わなかったし、私も知っていて口に出せなかった……」
ダイアナは涙を流している。
「おまけに、その罪悪感を人質に、主教たちにいいように操られているようなのです」
「大聖女様……」
「未来の皇帝陛下のお付きの方。女神様に代わり、私の願いを聞いてはいただけないでしょうか。娘をお救いください。
このままでは早晩、主教たちによって取り返しのつかない罪を犯すかもしれない」
「親娘なら、二人で話し合うことはできないんスか?」
「……。私とユーベルは、血が繋がっておりません。ある日女神様が、身寄りのない私に娘を授けてくださったのです。愛情も実の親子以上にそそいだつもりです。でも、彼女の罪が明らかにしてしまうことで、親子の縁が切れてしまったらと思うと……」
彼女は泣いている。不安なのだろう。いくら愛情を注いでも、所詮は他人。もし向こうがそう思ってしまえば、本当に他人になってしまう。一人の人間を信じ抜くことは、大聖女と呼ばれたダイアナでさえ難しいのだ。
「私はもう先が長くありません。私などのために、あの子に道を踏み外してほしくない」
帰り際、窓際に足をかけるサイラスにダイアナが語った言葉が耳に残った。それは紛れもなく、自分より子供を案ずる母親の言葉だった。