9───────────文春の失踪
「なぁ。ホントに逮捕しないんだろうな?」
川のそばの道を並んで歩きながら、山川が聞いた。
「事件解決しちまってから、『やっぱり逮捕する』ってのは無しだぞ」
「わかってるわよ…」
答えながらも、ヨーコは内心ドキッとした。
まさに図星。
有力な情報を吐かせたら、その場で手錠をかけてしまおうと思っていたのだ。
「あ、そう。じゃあ信用する」
山川があっさりと納得したので、ヨーコはホッとした。
「ところで、ヨーコが関わってたのはどういう事件なんだ?」
山川が空を仰ぎながら言う。
「えっ…」
ヨーコは口籠もった。
…刑事には、守秘義務がある。
事件の内容や捜査の進行状況は、「上」の命令がないかぎり、口外してはいけないのだ。
「だめ。あなたには、教えられない」
ヨーコはキッパリと言った。
「私は情報を守らなきゃいけない。
ましてや、あんたみたいな泥棒に話すなんてもっての他…」
「じゃ、俺も話さない」
山川がすかさず返した。
「なーーんにも教えない」「どうして?」
ヨーコは怒った。
「約束じゃない、捜査に協力するって!!」
「捜査に協力するには、まずその事件を知っとかなきゃな」
山川は、川辺の澄んだ空気を吸い込むかのように腕を広げて伸びをする。
「そうだろ?ヨーコ」
「ヨーコヨーコって呼び捨てにしないで!!」
「はいはい」
青年は面倒臭そうに笑った。
「じゃ、桐原サン」「…」
「教えてもらおっかぁ?その事件についてッ」
バシーン!!
ヨーコの平手がクリーンヒットした。
*
それは、一昨日の夕方のことだった。
佐倉文春は、新品のランドセルをカタカタ言わせながら、この川べりを走っていた。
急いでいる様子で、あどけないこめかみからは汗が滴っている。
「ふみはるー!!」
声と共に、前方からもう1人少年が現れた。
ジャイアンツの野球帽を被っている。
「おせぇぞー!」
「今行く!!」
文春はハアハアと息を切らしながらも、目を輝かせていた。
川の土手を駆け登る。
途中、草に足をとられてつんのめったけれど、軽やかに登っていった。
傍でモンシロチョウが輪を描いて飛び回る。
「みんな待ってたんだぜ!」
野球帽の少年が、文春を迎えながらニッと笑う。
「ありがとっ」
文春もニッコリし、早速ランドセルを草むらに放り投げた。
ランドセルの蓋が空き、計算ドリルがはみ出た。
が、少年達はそんなこと気にしない。
キャッキャッと声を上げながら、仲間達の元へ走っていった。
澄み渡った青空。
白い花びらが、どこからか舞い落ちる。
カキーーーン!
小気味よい音が響いた。
グリーンのTシャツを着た少年が、グッとガッツポーズを決める。
「やりましたっ、球はどんどん飛んでいく…ホーームランッ!!」
野球解説者になりきったかのように、少年ははしゃぎまわる。
青空に映え、白い球は花びらのようにゆっくりと落ちていく。
そして…
「あーっ!」
球は、背の高い川辺の葦の中に見えなくなった。
「あーぁ。飛ばしすぎたよ亮太」
ジャイアンツ帽の少年が言った。
「残念っ。ファウルです…」
実況を続けながら、亮太がガクッとうなだれる。
「困ったなあ。球、あれしかないんだよ」
別の少年が泣きそうな声を上げた。
「ママから貰った、プレゼントだったのに…」
「ごっ、ごめんな!」
亮太が慌てた。
「まさかあんなに飛ぶとは思わなかったんだ」
少年は、今にも泣き出しそうだ。
顔がくしゃくしゃになっていく…。
「ぼく、とってくるよ」
声を上げたのは、文春だった。
「ママからもらったんだろ?」
半べその少年が、こくんと頷く。
「待ってて」
ニッコリ笑うと、文春はミットを持ったまま、川辺に駆けていった。
まもなく、その姿は葦原の中へ消える。
「なかったら無理すんなよー!」
ジャイアンツ帽の少年が叫んだ。
「わかってるー!」
遠くから、文春が答えるのが聞こえた…
…これが、文春が目撃された最後だった。
少年達がいくら待っても、文春は戻ってこなかった。しびれを切らした彼らは、そろって葦原に探しに行った。
しかし、そこで見つけたものは、文春のミットだけだった。
少年の姿は、どこにも無かった…。
その夜。
不安に包まれる佐倉長官の元に、一本の電話が入った。
公衆電話からの着電。
「…もしもし」
震える声で、佐倉長官は受話器をとった。
「もしもし。文春!?」
しかし、聴こえてきたのは、変声機を使った、低い男の声だった。
『佐倉長官か?』
「…だれだ」
佐倉は受話器を握りしめた。
「だれだ!?」
『文春くんは、預かったよ』
男が、楽しそうに告げる。「!!」
佐倉の目が、大きく見開かれた。
『いい子だねぇ。ホントに大人しくしてくれてるよ』「…だれだ!!今、どこにいる!?」
佐倉は思わず大声を出す。が、犯人は冷静に笑うだけだった。
『まあまあ、落ち着いて。まだ、文春くんに手出しはしないからさ』
「おまえ…」
『ま、そういう事で。また明日かけるゎ。』「待て!!文春を返せ!!」
『次の電話は、明日の朝、6時前に。んじゃねっ、長官!』
ツー、ツー、ツー…
佐倉は、青ざめて立ち尽くした。
恐ろしい予想は、現実と化した。
文春が、危ない…!!
佐倉家の電話には、簡単な逆探知機能がついている。犯人からの電話は、武蔵野市内からだとわかった。
そこで、武蔵野中の警察が公衆電話に張り込み、次の電話を待っていたのだ。
そして、あの致命的なミスは起こった…。
「犯人は、今日の夕方、井の頭公園に5千万持ってくることを要求したわ。
ちょうどその時…あんたが私のバッグをひったくったのよ」
ヨーコが話し終えた。
「…」
山川は、腕を組み、黙って聞いていた。「さぁ、私はちゃーんと全部話したからねっ」
ヨーコが山川を睨み付ける。
「今度はあんたの番よっ」が、山川は答えなかった。切れ長の瞳は、川の土手に注がれている。
「文春くんがいなくなったのは…あの辺かな?」
呟くと、山川は葦原に向かって歩きだした。
「ちょっと!待ちなさいよ!」
ヨーコが慌てて後を追う。「あんた犯人見たんでしょ!?ちゃんと教えてよ!」「あとでな」
山川は、ずんずん歩いていく。
とうとう、葦原の中に見えなくなってしまった。
…逃げようったって、そうはさせないわよ!!
ヨーコも負けじと葦の藪の中に潜り込んだ。
目の前に広がる、葦、葦、葦。
掻き分けても掻き分けても、同じ。
葦の他には、何も見えない。
山川の気配も感じられない。
まさか、本当に逃げ出したんじゃ…?
不安に駆られた、その時だった。
ふいに、鼻が白い布で覆われた。
「!!」
振り払おうとするが、できない。
「んっ!」
頭を押さえ込まれ、動くことができない。
葦が、風に揺らいだ…。