7───────────追い詰められたヨーコ
「まことに申し訳ありませんでした!」
筑摩麗奈が頭を下げると、後ろに控えていた刑事たちもそれに倣った。
吉祥寺本町警察署。
誘拐事件の犯人を取り逃がし、皆憔悴しきっている。しかし、一番苦しいのは、警察庁長官・佐倉信春だろう。
彼の頭髪は一晩で真っ白になった。
いつもはピッチリ着こなしている背広も、力なくよれている。
組んだ両手に額を埋め、彼は今にも泣いてしまうか、怒鳴りだすかに見えた。
しかし、彼は何とか笑みをつくった。
「そんなに頭を下げないでくれたまえ」
発した声は、弱々しかった。
「まだ、チャンスはある。明日の夕方、身代金受け渡しで犯人に接触できる…」「しかし!」
筑摩が顔を上げずに、言葉を絞りだした。
「もし、このことで、手遅れになったら…文春くんに、何かあったら…!!」
彼女は、床についてしまうのではないかと思われる位に頭を下げていた。
「こんな事件に新人を配置した、俺のミスです」
岩波も声を上げた。
「…俺が責任をとります」
しかし、長官は手を上げて彼を制した。それから一つ深いため息をつくと、両手を組んで額に当てる。手の甲には力がこもり、骨や筋が浮き出ていた。
「…申し訳ありません…」岩波が呟いた。
彼の拳も、握りしめられていた。
「必ず、文春くんは無事に助けだします」
ザザが帰って来たのは、深夜だった。
「つ〜か〜れ〜た〜…」帰ってくるなり、ザザはスーツのままベッドに身を投げる。
「先輩、ご飯作ったんですけど…」
ヨーコが心配そうに声をかけた。
「おっ。いいねえ。気が利くじゃんっ」
ザザは、よっこらしょ、と起き上がった。
「何作ったの?」
「ドリアです」
「やった!!大好物なんだよね〜」
ザザが幸せそうにはしゃぐ。
「じゃ、食べよ食べよ♪」しかし、ヨーコはミットで耐熱皿を持ったまま、困ったようにザザを見つめるばかりだった。
「ん?どうしたの、早く食べようよ」
怪訝そうにザザが言う。
ヨーコは、苦笑いしていた。
「先輩、あの、テーブルが見当たらないんです…」
それはそうだ。
ザザの部屋のごちゃごちゃは、完全にテーブルを覆い隠し、どこにあるか全くわからなくしていたのだ。
「テーブルなんて無くても食べれるよ〜」
ザザが余裕そうに伸びをする。
「でも、先輩」
ヨーコは必死だ。
「ドリアのお皿、すごく熱いんです。置くところがないと…」
「んじゃ、どっかそこら辺の雑誌の上に置いて」
ザザは、当たり前のようにそう告げた。
「え」
ヨーコは絶句する。
ザザが快活に笑った。
「うん、遠慮しないで。ドリアで雑誌に染みがついても、それはそれで芸術だよ」
ヨーコは唖然。二の句がつげない。
「えええぇえーーー!?」
「佐倉長官さぁ」
湯気の立つドリアを口に運びながら、ザザが呟いた。「奥さん亡くしてるんだって」
「…え…」
「三年前。癌だって…」
静かな部屋の中で、ザザは深いアルトの声で続ける。「文春くんは、奥さんが佐倉さんに遺した、形見でもあるのよね」
「…」
「佐倉さん、言ってた。奥さんと約束したんだ、って。文春くんは責任持って育てるからって…」
ヨーコの脳裏に、憔悴していた佐倉長官の姿が浮かんだ。
…亡き最愛の人との、大切な約束。
文春くんは、今危険に曝されている。
約束は、果たせないかもしれない。
そして。
私は、その犯人を捕まえそこなった…
ヨーコは唇を噛み締めた。「早く犯人捕まえて、奥さんを安心させてあげなきゃね…」
ぽつり、とザザが言った。
ドリアの中にグチャッと突っ込まれている、乱切りの野菜たち。
ブロッコリーには、芯まで火が通っていない。
ヨーコは、大きな口を開けて、がぶっとかぶりついた。
『刑事は犯人逮捕のために働いてるんだろ?』
頭の中で、山川の声が甦る。
『俺の情報があれば、犯人逮捕できるかもしれないじゃん』
胸が、渦を巻くかのようにムカムカした。
熱いドリアを夢中で掻っ込む。
「ヨーコ、口のなか火傷するよ?」
ザザが面白そうに声をかけて、ミネラルウォーターのボトルを置いた(大根の段ボールの上に)。
口をドリアで一杯に膨らませたまま、ヨーコは軽く会釈して『ありがとうございます』を表現する。
そして、ドリアと胸の苛立ちを流し去ってしまうかのように、ボトルの水を飲み干した。
その時。
「あっ!!」
ザザが大きな声を上げた。「ごめん、その水5年前のだ!地震に備えて買ったやつ」
…思わずヨーコが吐き出してしまったのは言うまでもない。
*
「明日は、とりあえず署に顔出さなきゃね」
掃除しながらザザが発した言葉に、ヨーコの体がビクッと震えた。
ザザは汚れた雑誌の束を丸めて、ポイッと奥に放り投げる。
こうして、彼女の部屋は汚れていくのだ。
「ヨーコは、行くの辛いだろうけどさ…また新しく始めなきゃ、何にもならないからね」
「…」
雑巾を絞りかけたまま、ヨーコはうなだれ、呟いた。「ダメなんです」
「え?なんで」
「岩波さんが…『辞める決心ができたら』戻って来いって…」
岩波の言葉が、思い出す度に彼女からエネルギーを吸い取っていく。
「行っても、クビになるだけですっ…」
一瞬の沈黙。
「そうだねぇ」
ザザはあっさりと答えた。「でもさあ、行かなかったらどうするつもり?」
「…」
「一生、この部屋でウジウジしてる訳?」
「そんな…」
「それが嫌なら、行きなさい」
キッパリとザザが言った。「クビならクビ、新しい仕事探さなきゃ。
この世の中はね、モケーッとしてて暮らしてけるほど甘くはないよ」
「…」
「それに」
ザザの声が少し優しくなる。
「佐倉長官に、謝って来なきゃ」
本町署の、長い一夜が明けた。
デスクに頭をつき、タバコを片手にしたまま、岩波はウトウトと眠っていた。
「岩波刑事」
角川がそっと声をかける。「岩波刑事。朝ですよ〜。交代ですー」
が、岩波は動かない。
右手から、タバコがポトリと落ちた。
「うーん…」
困ったように角川は頭を掻いた。
耳元で怒鳴るか、思いっきり揺すぶれば起きるのは分かっている。
ただ、そんなことをして、もし彼の機嫌が悪くなったら…!!
あまりの恐ろしさに、思わず角川は震え上がった。
どうしようか。
このままでは埒があかない…
「私に任せて」
筑摩麗奈が進み出た。
40代も半ばになろうという彼女は、ふっくらとした中にも色気を感じさせる女性だ。
スーツから出ている淡いピンクの襟立と、12センチはあろうかという高いヒールが特徴で、男性刑事からは「マドンナ」と呼ばれている。
仕事はテキパキこなすベテランで、昇進するのも時間の問題だという。
そのマドンナが、角川に微笑みかけた。
「私に任せて」
「しっ、しかし…」
角川は口籠もる。
寝起きの岩波は、恐ろしい。
誰彼かまわず怒鳴り付ける。
もし、マドンナがそんな目にあったら…!!
「いえ、僕がやります」
勇気を奮い起こして、角川が告げた。
「大丈夫です!」
「ダメよ、いいから私に任せなさい」
マドンナも譲らない。
「遠慮しないで。ねっ?」
美しい女性に「ねっ?」なんて言われてしまうと、どうしてもデレッとするのが男という生物である。
「あ、じゃあ…お願いします」
角川がポーッとしながら身を退いた。
マドンナはニッコリ笑い、岩波に近寄った…。
「おきなさあああい!!」署の窓ガラスがビリビリいう。
バッコーン!
マドンナが手にしていたファイルが、岩波の背中を容赦なく襲った! 「いてぇぇっ!!」
岩波が跳ね起き、大声を上げる。
「だれだっ、俺を殴りやがったのは!!」
相当キレている。
角川は怖気付いて、2、3歩下がった。
こんな岩波とは関わらない方がいい。
「おい誰なんだ、ぁあ!?」
岩波がわめき散らす。
誰もがすくみあがった、その時だった。
「あら岩波さん、誰に対して口きいてらっしゃるのかしら?」
マドンナが静かに笑った。「あなたが、いくら声をかけても起きなかったのが悪いのよ?」
「れっ、麗奈…」
岩波が驚愕し、顎が外れそうなほどポカンと口を空けた。
「何か文句ありまして?」マドンナがズッと岩波に詰め寄る。
「な、ない…お前に文句なんてある訳ないだろう!」美しい人に責められ、岩波がモゴモゴいう。
「そう。じゃあ良かったわ。交代ですってよ」
マドンナが微笑みかけた。誰もが悟った。
…岩波よりも、マドンナの方がある意味おっかない。
「…おはようございまぁす…」
小さな声がした。
全員が、入り口をパッと見つめる。
捜査室のドアが若干内側に開き、黒髪の女の顔が、ちょこんとのぞいていた。
「ほら、早く入んなよ」
後ろから声がして、ヨーコの身体はポン、と捜査室に突き入れられた。
後ろにはザザがあくびをしている。
「桐原さん…!」
角川が歓声を上げた。
「良かった、戻ってきたんです、ね…」
しかし、その声はだんだん小さくなっていった。
まわりの刑事たちがヨーコに注ぐ、厳しい視線に気付いたからだ。
「…あのっ」
震える声で、ヨーコが頭を下げた。
「昨日は…本当に、申し訳ありませんでした…!!」しん、と静寂が張り詰める。
遠くでバイクが走り去る音がした。
「…許して貰える筈がないのは、判ってます。ただ、私は、ただ…」
ヨーコの肩が泣きそうにピクッとした。
「…申し訳ありませんでした」
ひたすら頭を下げるヨーコ。
垂れ落ちるミディアムの髪で見えないが、恐らく、恐れと緊張に満ちた表情をしているのだろう。
角川はとっさに、走っていって慰めたい衝動に駆られた。
「…桐原さん」
マドンナが口を開いた。
さっきまでの甘い声は、冷徹なものに変わっている。
「あなたがしたことは、決して許されないわ」
「…はい」
筑摩麗奈が静かに続ける。「佐倉長官が、夜中に倒れたの」
「!!」
ハッ、とヨーコは顔を上げた。
「心労が溜まっていたのに、捜査の最前線で眠らずに働いたのが原因。今は、病院で休んでるけれど…」
ヨーコは、ナイフで全身を斬り付けられたかのように感じた。
その灼熱の痛みは、目の前を真っ暗に染めていく。
私のせいだ。
私のせいで、佐倉長官は…
泣きだしたくなるのを、ヨーコはグッと堪えた。
「…私は、どうしたら良いですか…?」
「知らないわ、そんなの」麗奈がにべもなく言った。「自分で考えなさい」
真っ暗な世界。
また、目が潤み始める。
捜査室が涙の歪みの中に消え去る前に、ヨーコはそこを飛び出した。
「ヨーコ!」
ザザが叫んだ自分の名前だけが、聞こえる全て。
階段を駆け降り、無我夢中で走る。
署の入り口ホールを走りぬけながら涙を拭う。
何も聞こえない。
何も感じない。
私は、本当に、刑事失格…
ドンッ。
何かに正面からぶつかり、ヨーコは道に倒れこんだ。目の前に、汚れたスニーカーが現われる。
「どこ見て走ってんだよ。失格刑事」
聞き覚えのある声。
「…?」
ヨーコは、見上げた。
風ざわめく街路樹の下。
最初に出会ったのと、同じ場所。
山川圭司が、立っていた。