11───────────思慕
見張りというのは、これほど暇なものか…と、角川は思った。
外の暑く気だるい空気の中で、蝉が元気いっぱいに鳴いているのが聞こえるだけ。閑散とした朝のエントランスは、差し込み始めた陽光で薄い金色に輝き始めていた。
「誰も来ませんねぇ…」
角川はふわふわと欠伸を噛み殺す。
「張り込みだしてから4時間経ちますけど、何も起こらないし…」
「そうねぇ…」
ヨーコもかなり眠そうだ。目蓋が重い。のどかな夏の空気に、意識が溶け込んでいってしまいそうになる。だが、意識を眠りの中に解き放とうとする瞬間、彼女の理性がヨーコを押し止めるのだ。「職務中に居眠りするなんて、許されると思ってるの?」と。
「何か起こらないかしらねぇ…」
何か目覚ましになるような刺激を求めて、ヨーコはエントランスの外に目を向けた。
二人は、エントランスで長椅子に並んで腰掛け、来院者がこないか待ち続けていた。患者の家族に紛れ込んで、被疑者が姿を現すかもしれないからだ。ヨーコと角川は、来院者すべての身元を調べあげる気でいた。うまくいけば、エントランスで被疑者を捕まえられるかも知れない。
しかし、肝心の来院者が一人もやってこないのだ。最初は緊張と興奮でワクワクしていたヨーコと角川も、時が経つにつれて眠気に支配されていった。
「ふぁ…」
角川は再び欠伸を噛み殺した。昨夜寝ていないこともあり、身体に力が入らない。それでも彼が何とか起きていられるのは、隣にヨーコが座っているからだ。たったそれだけのことなのに、角川の心臓はトクトクと早鐘を打つ。
…桐原さん。私は、どうしたらいいですか…?
苦しい想いが、角川の胸の底で渦巻き始めていた。
恋は、一度自覚してしまうと、まるで病のように人を蝕んでいく。激しく恋に突き動かされる者もあれば、じわじわと攻め立てられる者もある。角川は、まさに後者だった。
…桐原さんには、立派な相手がいるんだ。そんな人に、ときめいてはいけない。絶対に、いけないんだ。
角川は閉じかかる目蓋を押し上げながら、自分を戒めた。
…私は、忘れなくてはいけない。こんな一瞬の胸の高鳴りなどは…。
ふいに、外を見つめていたヨーコが角川に視線を向けた。
「角川くん。大丈夫ぅ?」
角川は、彼女の声でようやく物思いから覚める。
「…えっ?…あ、はっ、はい!大丈夫です!」
慌ててピシッと背筋を伸ばすと、ヨーコがクスクス笑った。
「どうしたの?なんかヘンだよ、今日の角川くん」
「へ…ヘン…ですか?」
何気ないヨーコの言葉に、彼はドキッとした。もしや、自分の想いに気付かれてしまったのではないかと思ったのだ。
「角川くん、暑くて溶けちゃってるんじゃない?」
ヨーコはニッと角川を見た。
「あたし、そこの自販機でジュース買ってくるよ。冷たいもの飲んでシャキッとしなきゃねっ」
「ぁ…ありがとうございます」
角川が答えるか答えないかのうちに、ヨーコは勢いよく長椅子から立ち上がった。
ヨーコが脇を通り抜けたとき、ふわっと優しい風が角川を包み込んだ。
爽やかな香がした。
…桐原さん。
角川は思わずヨーコの後ろ姿を目で追う。
「私は、あなたに溶けてしまいそうなんですよ…」
…私の気持ちは、きっとあなたに届かない。
私は、どうすればいいですか?この苦しさを…
4メートルほど先の壁ぎわに、自販機はあった。ヨーコがレモンウォーターのペットボトルを二本手にして戻ってくる。
「はい、角川くん」
ヨーコが、ボーッとしている角川にレモンウォーターを渡したときだった。
「あれ?ヨーコじゃん」
突然、能天気な声がした。
「…あぁ、そうか。張り込みしてるんだっけな」
ヨーコは、その聞き覚えのある声に思わず硬直する。
まさか。
まさか…
振り返ると、そこにはエプロン姿の青年が立っていた。
しばらく染めなおしていないせいか、プリンのようになってしまったボサボサの茶髪。切れ長の瞳。すっと通った鼻。ひょろっとした身体つき…。
「よっ。久しぶりー」
彼は、へらっと右手を上げてみせた。
ヨーコは唖然として、グッと大きく目を見開いたまま、動けない。
「山川圭二…!!な、なんでアンタがここに!?」