32───────────「ただいま、パパ」
いつの間にか、
空が、風が、
遠ざかっていく。
雷が、黒雲が、
消えていく。
あっという間に過ぎ去った、春の嵐――。
「…ママ…?」
ヨーコの腕の中で、小さな声がした。
掻き消されそうな、微かな声。
それでも、その声は真っすぐ2人の耳に届いた。
「あ…」
山川が呟き、ヨーコは涙に濡れた顔を上げた。
きつく力をこめた腕の中。今まで身動き一つしなかった文春が、ぼんやりと2人を見つめていた。
「…ママだょね…?」
必死に呼吸している、小さないのち。
わずかに少年の唇から漏れる、懸命に生きようとする証。
ほんのりとヨーコを暖める体温。
「ふ…ふみはる君…」
ヨーコは、泣き笑いしながら文春を覗き込んだ。
半開きだった少年の眼は、今、ぼんやりとヨーコを見上げている。
「ママだぁ…」
文春の口元が、きゅっと上がった。
「あいたかった…」
どうやら、少年はヨーコを死んだ母親と錯覚しているらしい。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
文春は、生きている。
生きている…!!
その喜びだけが、ヨーコを満たしていく。
母親が子を守るように、ヨーコは少年をしっかりと抱いた。
…誘拐されてから4日もの間、よく我慢してたね。
私がミスさえしなければ、もっと早く助けてあげられたのに…ごめんね…。
これから元気になったら、うんと私を叱ってね。
でも。
よかった。
ほんとに良かった。
文春くんが生きてて、本当に良かった…!!
柔らかく風が吹いた。
「ママも」
彼女は、文春に頬を寄せた。まるで、母親のように。
「ママも、あいたかったよ…文春…」
そんなヨーコを見つめながら、山川も笑みを浮かべていた。
ようやく顔を出した太陽が、葦原を光の色に染めていく。
水面に反射したその色は、舞う花びらのように大気に降り注いだ。
「おひさまが、祝福してるよ」
山川が、2人に優しく声をかけた。
「さあ、帰ろう。ずうっと待ってる人の所へ…」
*
「文春!!」
病院を爆発させてしまうような、金切り声。
その声の主…佐倉長官は、知らせを聞いた途端に飛び上がった。
見舞いに来た部下たちに挨拶もせず、つむじ風のようにバビューンと走り去る。一瞬の出来事だった。
「すげー…」
「速ぇ…」
取り残された部下たちは、の猛烈さに、顎が外れてしまっている。
長官は、病院の廊下を疾走した。
はずみで、点滴を打ったまま歩いている人や、カルテを抱えた看護士を突き飛ばす。
いつもなら丁重に謝るところ。
しかし、今の長官には、それはできない。
長官の頭の中には、愛する息子のことしか頭に無い。
ふみはる。
ふみはる。
ふみはる。
この4日間、呼び続けた名前。
…もうすぐ会える!!
そう思うだけで、憔悴しきっていた身体がピンピンと動きだす。
スライディングするかのように廊下の角を曲がり、面会客たちをバタバタと転倒させた。
あちこちで悲鳴が上がる。
その病室が、真っ正面に見えた。
「ふみはるーーー!!」
キキーッ。
ブレーキ音を立てたが、間に合わなかった。
ドォン!!
ものすごい轟音とともに、佐倉長官はドアごと病室に突っ込んだ!
「ギャアアっ!」
岩波と角川が、大声を上げて飛び退く。
その直後、ドアもろとも長官が倒れこんできた。
ドォォォン…
もうもうと埃が舞う。
今まさに角川が座っていた場所は、ドアの下敷きになった。
「ちょ、長官!」
目を皿のように丸くして、角川が叫んだ。
顔がひきつってしまっている。
岩波はと言えば、モアイ像のように石化して壁に貼りついていた。
しかし、長官はそんなこと気にもとめない。
「文春…!!」
長官が、白い子供用ベッドにヨロヨロと歩み寄った。文春が、大きな瞳で父親を見つめている。
一瞬の間。
そして、親子はワッと抱きついた。
固く固く、互いの背を抱き締める。
息が詰まってしまう程つよく、激しく。
淋しかった時間を、取り戻すように。
お互いを安心させるように。
もう、二度と、離さないように…。
抱き合うだけで、全てが満たされた。
「ただいま、パパ」
文春が嬉しそうに言った。長官は、息子をひたすら抱き締める。
「おかえり…」
岩波が、床にズルズルと崩れた。
ようやく石化が溶けたらしい。
しかし、顔はまだモアイそっくりに固まっている。
それを見て、角川は思わずクスッと笑った。
「岩波さん、かわいいですよ♪」
「なんだと!俺にむかって“かわいい”だとぉ!?」しかし、岩波はそれ以上キレなかった。
ここは、親子の再会の場所。
怒鳴り声のBGMなんて、あってはならない。
「あとで、覚悟しとけよ角川ぁ…」
低い声で、一応おどしておいた。
「あのね、パパ」
無邪気に、文春が言った。「僕のことね、ママが助けてくれたの」
「え?ママ?」
何かの間違いだろう、と長官は首を傾げる。
それが伝わったのだろう、文春がプウッと膨れた。
「ホントだもん!ママが助けてくれたんだもん!!」「で、でも文春。ママは、お空にいるんだよ?」
長官は困って、苦笑いした。
母親が死んだということは、文春も充分わかっているはず。
それなのに、どうして今更こんなことを言うのか…
「ママね、言ったんだよ」文春が、ニッコリ笑って父親を見た。
「文春がね、あいたかったって言ったの。
そしたらね、ママがね、言ったの。
“ママも、あいたかった”って」
「…!」
長官は、全てを理解した。桐原刑事。
文春を救ってくれた刑事。彼女が、そう言ってくれたのだろう。
しかし、長官は心のどこかで、亡き妻を思い浮かべていた。
死ぬ間際まで、文春のことを思っていた妻。
『文春を、守ってね…あなた…』
…おまえとの最後の約束、守れたよ…。
長官は、零れ落ちそうになる涙をこらえ、強く文春を抱いた。
桐原ヨーコの発した言葉は、亡き妻からの伝言のように、長官には思えたのだった。
春の柔らかな温もりが、病室をふんわりと包み込んでいた。